三光天像

 寛永(1624~1644)の往古より、開山実蔵院日相上人の勧請によって、三光天像が安置されていますが、その伝来の由は不詳です。
 三光天とは日天子・月天子・明星天子の総称で、法華経では日天子は宝光天子、月天子は名月天子、明星天子は普香(普光)天子 といって、ともに序品で法華の会座に列しており、日蓮聖人の大曼荼羅にも勧請されています。

三光天像

 日蓮聖人は『四条金吾殿御消息』の中で「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下て日蓮に見参し給ふ。いま 日天子ばかりのこり給ふ。定て守護あるべきかと、たのもしたのもし」(昭和定本505頁)と述べられ、法華経の行者を守護する諸天善神として拝されています。
 現存する三光天像は創建時のものではなく、天明8年(1788)8月28日に金子直徳によって寄進されたものです。

[参考]
 この三光天像を寄進した金子直徳「カネコナオノリ(1750~1824)」は江戸期における日蓮宗の篤信者で諸寺院に対する寄進・奉賛の事跡が数多くあります。また雑司が 谷在住の文人であり、江戸期の雑司が谷を知る上で最も貴重な資料となっている『若葉の梢』『若葉抄』を著した人でもあります。俳人としても有名で俳諧の作 法書『杉家俳則』を校補開版し、俳人としての地位を揺るがぬものとしました。現在本納寺の本堂に向かって右手に見える「金子直徳供養塔」は直徳の遺徳を顕彰して、昭和48年に当山三十三世日道上人が建立したものです。

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