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IN MYANMER 4

2014年7月19日

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名残を惜しみながらマイトリースクールを後にして、次は世界的に貴重な仏教建築群(世界三大仏教遺跡)のあるバガンに移動。
さかのぼること一千年、日本では平安中期の頃である。ミャンマーではビルマ族による国家統合が進み、仏教文化・バガン王朝が出現した。その興隆の姿が今日に残る仏塔(パコダ)・バガン遺跡群であり、今日のミャンマー連邦共和国の源流となっている。
早朝、空模様は怪しいが、朝日を拝みにシュエサンドー・パゴタの遺跡に登る。段々明るくなってきて、雲の隙間から太陽が出るかもと期待したが、結局拝むことはできなかった。それでも遺跡の上から見える景色は、一面のサバンナで、ぽつぽつと小さな遺跡が建っており壮大この上ない。そこここから日の出を見るための観光用気球が地面からポコポコ生まれてくるように飛び立ってくるのも面白い。日頃の慌ただしさを忘れ、ゆっくりした時間を過ごすことができた。
次にニャウンウーマーケットという市場へ。いかにもアジアという雰囲気の市場で活気に溢れている。野菜、果物、米、肉、魚などのほか日用品なども売っている。生ものを扱っているせいだろう臭いはそれなりにするし、衛生的にもどうかという感じではあった。市場の周りの道路には馬車も走っていた。 続いてバガン最大の見所、アーナンダ寺院へ。金色に輝く仏塔と四方にのびる大きな回廊、それぞれ四方に安置されている高さ10メートルくらいの四仏は圧巻であった。ガイドさんが、近くで拝するのと離れて拝するのでは、お顔が違うと教えてくれたので、何度も行ったり来たりして拝んだ。その後アーナンダ寺院とならんでバガンを代表する仏塔のあるシュエズィーゴォン・パゴタ等を観光した。
短い期間ではあったが、ミャンマーの人々の親しみやすさ、純粋さに触れられて、今までの目で人・景色を見ていろいろ感じ、考えるだけではダメで、今までとは違う新たな自分の目を持つと言うことが大切なんだと痛感した旅となり、充実の研修になった。
これからミャンマーは大きく変わっていくだろう。
日本は発展とともに「本当の良い生活とは、物質を多く享受する生活ではなく、豊かな精神と文化を持つことである」ということを忘れてしまっていた。どうか忘れないでほしい。(達彦記)<終>

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2014年6月4日

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いよいよ今回の旅のメインともいえるザガインのマイトリースクールに到着した。
先祖や親がハンセン病であるということから、家族ごと隔離され、差別にあっている人達に最低限の教育をと、NPO法人T・M良薬センターが建立した小学校である。
子供達は全くな健常者であるにもかかわらず、差別をうけ、以前はまともな教育が受けられなかったそうだ。ボロボロの藁葺き屋根で、雨風もしのげないような校舎。雨期があるこの国で、どれだけ過酷な状況だったことか。
それでも学校の通える子供はいいほうで、通学できない子供がほどんどだったそうである。
現在は、日本の学校とまではいかないが、立派な校舎が建ち、机や椅子、黒板なども揃っている。

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以前、そのT・M良薬センターのセンター長から、日蓮宗のカンボジアスタディーツアーに同行してもらえないかというお誘いを頂いたことがあった。子供達と一緒にサッカーをしてほしいという依頼だった。私がやってきたサッカーが少しでも役に立つのならと承諾したが、そのスタディーツアーの日程は学校の修復等で予定が合わないという理由で、残念ながら実現しなかった。
「それなら個別にスタディーツアーを企画しましょう」という別の依頼がきて、サッカーボールやサッカーゴール、ユニフォーム等を支援して、楽しんで喜んでもらおうということになったのである。
ミャンマーはサッカーが大好きな国である。
私達が到着すると、みんな笑顔で、手を振って迎えてくれた。
大教室に集まった子供達を前に、寄贈式が開かれた。さすが仏教国、私の挨拶をみんな合掌して聞いてくれる。
「私達はみなさんとお友達になりたくて来ました。サッカーは、ボールひとつで、言葉が通じなくても、年が違っても、性別が違っても、人を結びつけることができます」等と緊張しながらお話しした。
子供達の発育と幸福を願いご祈祷を厳修して、式は終了。

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いよいよグランドでサッカーの時間である。子供達は支給されたユニフォームとスパイクを身につけ登場。父兄なのか近所の方なのか、多くのギャラリーがいたせいか、胸を張って誇らしげな登場で、かわいい。キックオフすると目を輝かせ、みんな一心にボールを追いかけ始めた。いいプレーをした子に、ジェスチャーで褒めると、照れくさそうにしながらも、嬉しくて仕方がないという笑顔を返してくる。
実は「今回サッカーボールの支援をすると聞いたけど、本当に必要とするものはボールではないでしょ」という声もあった。もちろん生活のための物資の支援も必要で大切である。しかし、生活や勉学の余暇にする遊びや楽しみを味わう喜びは子供達にとっては貴重な機会に違いない。そしてそれは一緒にサッカーをしたあの子供達の満面の笑みが証明してくれた。
「悪い天気」で晴天、ピッチレベルでは40℃はあるのではないかという暑さの上、芝生(雑草)や砂利でボコボコのピッチ。日本の子供達はなんて恵まれているのだろうと改めて感じた時間でもあった。
ピッチの外では、保育士さんがサッカーをしていないたくさんの子供達に囲まれていた。折り紙をして遊んでいるようだが、人垣がすごくてどこにいるのか見えないほどである。どうやって折るの?このあとどうしたらいいの?と殺到して大賑わいであった。(達彦記)〈つづく〉

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2014年5月2日

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今回のミャンマーツアーの目的は、現地の保育園・小学校を訪問し、紙おむつ・粉ミルクなどの食料品・医薬品や教材・備品などの支援をし、一緒に遊んで楽しんでもらうことである。そんなわけで、いつもの仲間に加えて、M保育園の保育士の方々と合同での訪問となった。
最初に訪れたのは、ヤンゴンの孤児院。施設名を聞いたのだが、ヤンゴン2日目の僕には覚えられず、看板を見てもビルマ文字だったので、全く解らなかった。
中に入ると、ホールにはおもちゃやぬいぐるみがいっぱいで、1歳から3歳くらいの子供達がぞろぞろと30人くらいホールに出てきてくれた。顔に「タナカ」とよばれる白っぽい粉というかファンデーションのようなものを塗っている。みんな人懐こくてかわいい。「遊んでー」「だっこしてー」と寄ってくる。あとで聞いたのだが、子供達はおむつをしておらず、おもらししたら、着替えればいいということだったようだ。だっこしている最中おもらしする子がいなくてよかった。
M保育園の先生方は私達がホールで幼い子供達と遊んでいる間、奥の子供達の部屋へ行き、もう少し大きい子供達と用意してきた折り紙や手遊びをしたりして、過ごしたそうだ。言葉が通じなくてもコミュニケーションがとれて、楽しんでもらえたことに手応えを感じていた。きっと先生方にとっても貴重ですばらしい体験だったことであろう。
この孤児院は職員よりもボランティアの方が大勢いて、子供達はたくさんの人に囲まれていた。この施設に入っている子供達はかなり恵まれている方なのだろう。

次にルンビニーアカデミーという保育園を訪問。ここは少し裕福層向けの保育園である。小さな教室で子供達と対面。早速、M保育園の先生方が折り紙や紙風船を取り出し遊び始めるが、子供達は緊張気味。そこで紙風船をぽーんぽーんとしながら渡してみると、グシャっとする。また膨らまして渡すと、またグシャ。つぶすのが楽しいらしい。そんなことをしているうちに段々と打ち解けてなごやかムードに。
2階に上がって案内された教室では英語の授業をしていた。就学前の年齢にもかかわらず、かなり本格的な内容である。これまでのミャンマーは貧しく、ろくに教育を受けられなかったとのことだが、少しずつ発展してきた現在はこのように教育に力を注げるようになっている。
M保育園一行の反省のつぶやき「小さい子に、紙風船はダメだね」。

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マンダレーに移動してからの夕食は、ミャンマー女子サッカーのナショナルチーム代表K監督とご一緒することができた。現在のミャンマー代表監督は日本人なのである。言葉の通じない国でサッカーを指導するにあたってのエピソードや文化の違いによる苦労話は、サッカー好きの私にはとても面白く、興味深いものだった。翌朝、練習があるということで、出来上がったばかりのスタジアムに同行し、練習を視察させてもらえた。なかなかできない体験で嬉しい限りである。

この日は雲ひとつない晴天。いい気分でガイドさんに「今日はいい天気ですね」と言うと「ミャンマーでは太陽がでていると猛暑になるので、曇りの日をいい天気というのです。今日は悪い天気です」と返された。
ミャンマーの女性・子供達が顔に塗っている「タナカ」とは、ミカン科のタナカの木(小髙木)の樹皮の部分をすりおろしたもので、水で溶いて顔につける。日焼け防止や保湿・殺菌・肌荒れ予防などの効果があるとされていて、塗ってしばらくするとパリパリに乾いてくる。さらさらとしていて、ベビーパウダーのような触り心地の上、柑橘系なので清涼感があり、香りもいい。暑いミャンマーの気候にはぴったりである。

スタジアムを離れ、マンダレーからザガインへ向かう。途中マンダレーから車で一時間くらいの丘の上に日本人墓地がある。丘の上まではバスでは上がれず、トラックの荷台(ミャンマーのバス?)に乗り換えてガタガタ揺られながら昇っていく。丘の上は街が一望できてすばらしい景色である。
M保育園の保育士の方の曽祖父が戦時中ミャンマーで亡くなられたそうで、「ミャンマーに行くと言ったら祖母がとても喜んでいました」とのこと。日本人慰霊碑に戦没者の名前が刻まれていたので、みんなでひいおじいさんのお名前を探してみたが、残念ながら見つからなかった。慰霊碑前で読経し、謹んでご回向した。
「有難うございます。祖母に伝えます。」と保育士さんに感謝され恐縮。日本から遠く離れたこの地まで来た甲斐があったというものだ。(達彦記)〈つづく〉

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IN MYANMER

2014年4月10日

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ここ数年、仏教支援や仏教研修のためアジアツアーに出かけている。今回はミャンマーへ。
シンガポール経由でミャンマーヤンゴンに到着。アライバルビザの手続に時間がかかるわ、荷物を受け取ればいきなりスーツケースの鍵が壊れているわで、空港で既に前途多難な予感である。
建物の外に出ると、暑い!乾季で35℃くらいあるという。町は思ったより都会で、緑が多いが車も多く、渋滞も・・・。

昔はビルマとよばれていたミャンマーを少し紹介すると・・・、
19世紀後半に、イギリスによる植民地支配が始まる。20世紀中期、アウンサンの指揮により ビルマ連邦として1948年に独立を果たすが、アウンサンは暗殺され、後継者ウー・ヌーが初代首相に就任。その後少数民族勢力との武力闘争の過程で、軍事政権による独裁体制が続くことになった。国民への軍事政権による弾圧が続き、その軍政主導政治を非難し政治の民主化を求める欧米から経済制裁を受けるなどして半鎖国状態となり、経済が著しく停滞。20世紀後半から、アウンサンの長女であるアウンサン・スーチーを指導者とする民主化運動が台頭し、ようやく2011年軍政から民主化された。国内の政治的事情も改善の動きが見られたことで、米国やアジア各国間の急速な関係改善が進み、欧米日企業のミャンマー進出活動が活発化した。アジア最後の経済未開拓市場として 今後の発展が最も期待される国となっており、日本からも多数の企業が進出している。

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なにはともあれ、と、まずは巨大な寝釈迦牟尼仏を参拝。全長70メートル高さ17メートルもあり、南の仏像らしく目がくりくりと大きい。さすが90%が仏教徒という国の規模で到着早々圧倒される。
そのあとは早速初めての食事。とてもおいしかったが、なんだか高級な店構え。一食目なのでツアー会社が気を遣ってくれたのだろうか。 ミャンマーはお米の国だ。ポピュラーな料理はミャンマーカレー。カレーといっても日本やインドのカレーとは味もスタイルも異なり、スパイスのきいた煮込みといったほうがしっくりくる感じ。それをパラパラなご飯の上にかけて食べるのである。そしてもう一つ有名なのが国民的な朝食といわれる、モヒンガー。ソーメンに似た米麺を、ナマズだしの、もったりしたスープに入れて食べる。ホテルの朝食で口にしたが、これも美味しかった。
ヤンゴンで最も大きく賑やかなアウンサンマーケットでロンヂー(ミャンマーの民俗衣装)とミャンマーサンダルを購入した。
ロンヂーとは巻きスカートのような布で、軍人、警察官など一部の少数を除いて老若男女が毎日の生活に着用している。他の東南アジア各国で洋服文化が広まる中、頑なに伝統を保っているミャンマーでは、都市だろうが田舎だろうがみんなロンジーをはいていた。
この2点は大変心地よくミャンマー滞在中は、私達もずっとロンヂーにサンダルスタイルだった。

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夕方からはヤンゴン最大の聖地 シュエダコォン・パゴタヘ参拝。仏塔は金色に輝き、中にはお釈迦様の聖髪8本が祀られているといわれている。 昼間は石床の照り返しで40℃以上になるためお参りは困難とのことで、私達は日没前にお参りしたのだが、床はまだ熱を持っていて、ミャンマーではお寺に訪れるときには素足でお参りしなければいけないので、足裏が暖かかった。
境内の東西南北にはそれぞれにお堂があり仏陀像がそびえている。後光が電光なのが面白い。
仏塔の外周にはところどころ小さな祭壇があり、大勢の人で賑わっていた。ミャンマーの伝統暦「八曜日」の守護像である。
ミャンマーの人々にとって「八曜日」は生活の一部なのだそうだ。「何日に生まれたか」より「何曜日に生まれたか」が重要で、各曜日は方位・星・動物もあらわし、当該の方位に祭壇が据えられていて、その曜日に生まれた人の人生を守護してくれるといわれている。西暦の七曜制と違い、水曜日が午前と午後に分けられて「八曜日」となるとのこと。
祭壇の前では、それぞれ、その曜日生まれの人が熱心にお参りしている。私も「生まれ曜日」の土曜日の祭壇へお参りした。南西の方角で動物は龍、星は土星だった。
熱心な仏教国ミャンマーでは9割の男性が出家し、一通りの修行と教えを学び、最終的にそのうち2割が仏門に残り、僧侶となる。
象徴である仏塔(パゴタ)は国中に大小無数にあって、聖なる場所として大切にされている。ガイドさんも仕事がないときは必ずお参りにいくと言っていた。(達彦記)〈つづく〉

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IN CAMBODIA / VIETNAM 4

2013年7月18日

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前向きな、熱気ある国カンボジアを後にして、ベトナム・ハノイへ。
1970年ベトナムは戦火の中でした。北ベトナムと、米国が軍事介入した南ベトナムとの戦争は、1975年、たくさんの被害・犠牲者を出しながらもベトナム国民自らの力で米軍を追い出し終戦をむかえ、ベトナムは統一されました。しかし、戦後40年経った現在でもその傷跡は深く残っています。
今回は首都ハノイ近郊にあるベトナム最古、仏教発祥の霊跡「仏跡寺」を訪問しました。ご本堂と観音堂で法味言上したあと、御住職ティエン法師にお話を伺いました。
「ベトナム王国は仏教国です。戦後、人々の心のよりどころである仏教寺院が見るも無惨な姿のまま放置されていていました。現在でもまだそのままになっているところがあります。そんな中、NPO法人「T・M良薬センター」が中心となって『日越仏教交流センター』が2004年、仏跡寺境内に建設されました。ベトナムと日本の仏教文化交流の拠点にしたいです」と説明してくれました。
この交流センターは、赤レンガ作りの落ち着いた建物で、建設時に寄贈されたものでしょう、日蓮宗の御曼荼羅が掲げてありました。現在はパソコン教室を開催したりして活用されているそうです(今回仏教支援としてパソコンを寄贈しました)。
境内の離れには孤児院もあり、学校帰りの子供たちを見かけました。みんな楽しく笑っていて、なんだかいい光景。施設に入ることができない孤児がたくさんいることを思うと、この施設にいる子供達は幸せな方なのでしょう。 ベトナム仏教はこれからもっと繁栄していくだろうと確信し、安心しつつ仏跡寺をあとにしました。
残りの日程では、ハノイ市街の一柱寺を参拝し、ホーチミン廟などを観光しました。文廟(孔子廟)では卒業式シーズンだったらしく、民族衣装アオザイを纏った女学生たちに遭遇。夜には水上人形劇を観たりもしてベトナムを満喫しました。
旅行中驚いたことは、この国には道路法規が無いのではと思うくらい、車がメチャクチャに走っていることでした。
毎朝フォーを食べ、そのほかの食事も充実していて満足でしたが、疲れからか、パクチーを食べ過ぎたのか、お腹の調子が。
そこだけが少し残念でしたが、たくさんの体験ができ、充実の研修旅行でした。<終>

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IN CAMBODIA / VIETNAM 3

2013年6月26日

NPO法人「T・M良薬センター」が支援するカンボジアの小学校の校長先生、サリンさんにお会いしました。
アンコールを巡っていたときにも見かけたのですが、カンボジアの児童はみんな楽しそうでした。今は日本でいう義務教育と同じで、みんな教育が受けられます。ただ児童の多いところでは、一度に児童を受け入れることができず、午前と午後の二部制になっているそうです。
サリン校長は私より若い方でした。
私が「若いのに校長先生なんてすごいですね」と言うと、「この国には年配の人はあまりいないのです」との答えが返ってきました。

私が小学校中学校のとき、「カンボジアの難民」のニュースを耳にしました。テレビには裸に布を巻いただけの人々が映っていました。サリン校長は、まさにそのタイ国境に追いやられた難民だったそうです。
当時カンボジアを支配していたポル・ポトは「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱え、政治的反対者を弾圧しました。戦慄すべき地獄がこの世に現出したごとく、わずか4年間で総人口800万足らずのこの小さな国で、200万から300万近くの人間が虐殺されました。実に6割以上が殺されたことになります。
生き残った人々の心には、永久に拭い去ることの出来ぬ悲しみと苦痛が刻み込まれています。サリンさんのご両親もこの時に殺されたそうです。
サリン校長は「私たち若者が頑張らないとこの国はダメになる」とおっしゃっていました。<つづく>

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2013年6月2日

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次の日、いよいよアンコール遺跡へ。
アンコール遺跡群は、現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝の首都の跡で、この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスールヤヴァルマン2世(1113-45年)とジャヤー ヴァルマン7世(1181-1201年)です。
スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされています。
「アンコール」とは王都、「ワット」とは寺院を表す言葉で、アンコール遺跡群の中でも有数の大きさを誇る遺跡です。ここはヒンドゥー教の寺院で、中央祠堂にはヒンドゥー教の三大神のひとつヴィシュヌ神が祭られていました。 現代の我々が見ても巨大な建築物、昔の人はどうやってこの大きな石を積み上げたのでしょう。
壁面にはヒンドゥーを代表する「マハーバーラタ物語」を描いた、細かい美しい彫刻がされていて、人類の偉大さとその神秘さに魅了されました。
アンコール遺跡の中で最大なのは、アンコール・トムと呼ばれる城郭都市の遺跡で、バイヨン寺院や王宮などの複数の遺跡を内包しています。
東西南北に城門があって、東側には「勝利の門」と「死者の門」の二つがあります。
仏教徒であった7世王は、仏法によって国内の統治、平和を目指しバイヨンを創建しました。バイヨンは須弥山イメージして作られたといわれており、四面体観世音菩薩がいたるところにあって、このころから大乗仏教が影響していたことがうかがえました。
アンコール遺跡をめぐった後は、プレループという遺跡から夕日を眺め、翌早朝はアンコール・ワットから日の出を観賞。日々の慌ただしさを忘れる穏やかな時間の中で、ジャングルに沈む太陽とアンコール・ワットから昇る太陽に感動しました。<つづく>

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IN CAMBODIA / VIETNAM

2013年5月20日

先日、カンボジア・ベトナムに行って来ました。 カンボジアの小学校、ベトナムの日越仏教交流センターへの仏教支援のためです。
日蓮宗寺院が母体となるNPO法人「T・M良薬センター」にご協力いただき実現しました。

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まずはベトナム・ハノイの空港を経由し、カンボジアシュムリアップ空港へ約七時間かけて到着。
バイクとトゥクトゥクがごったがえす交差点は、まさにアジアです。
夜の到着だったので、ホテルにチェックインする前に夕食になりました。はじめてのカンボジア料理、衛生的に大丈夫か心配しながら、おそるおそる口に入れましたが、ひじょうに素朴な味でおいしく頂けました。
そしてそのあとは、ガイドさんの誘いでカンボジアの結婚披露宴に参列することに。
カンボジアの披露宴は御祝$20で誰でも参加できるのです。七種の料理が食べ放題。カンボジアの音楽が流れ、みんなで輪になってカンボジアの踊りをしていて、私たちも「一緒に踊れ」と輪の中に引き込まれてしまいました。面白い体験でした。<つづく>

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教育、修行、文化を統合した「法鼓山国際仏教教育園」

2012年4月17日

台湾法鼓山訪問

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先日、台湾に行って来ました。
以前本納寺前のアパートに住み、立正大学に留学していた台湾僧の釈果暉(洪鴻榮)師に6年ぶりに会うことができました。
先代と親交のあった釈聖厳法師が創始した法鼓山で仏教学院の主任をお務めです。
宝物法華鐘をはじめ山内を案内してもらい、昼食(精進料理)をいただきました。

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法鼓山
法鼓山の創立者の聖厳法師は
「法鼓山には大きな資金力はない、しかしその影響力は深遠で広大である。これは私達の特色だ。法鼓山は社会のために良好な気風をもたらし、有益な修行方法を提供する。これは私達が貢献できることだ。」と話されている。 僧団は1980年に創立された。
設立の主旨は仏教教団を組織し、青年僧の育成、法鼓山の理念を教え広め、よってこの世の浄土の理想を実現することにある。
この組織の主要な活動は研究と開発、各種座禅修行の推進、仏学教育、思いやりの心の教育と普及などである。法鼓山の僧団は聖厳法師を精神的な指導者とし、その創立は1977年に聖厳法師が米国から台湾に帰国し、中華仏教文化館と農禅寺を引き継いだ時に始まる。仏法を広め、将来三宝の住職となる青年僧の人材育成のために、農禅寺は1979年8月に「三学研修院」として成立した。成員は当初10人であった。その後、僧俗四衆の成員が増加した。「法鼓山世界仏教教育園区」の竣工によって、現在この中心組織も法鼓山に移った。聖厳法師は3年前に御遷化されました。
「法鼓」この言葉は、仏典中しばしば現われる言葉である。
たとえば《妙法蓮華経》では「惟願天人尊,轉無上法輪,撃於大法鼓,而吹大法螺,普及大法雨,度無量衆生,我等咸歸請,當演深遠音。」で、「撃大法鼓」とは、仏法の太鼓の響きは人々の心を浄化し、人々の心に安楽と平静をもたらすのである。法鼓山の地理的な形状は、太鼓が横たえられたようで、経典の比喩に基づき鼓に似た形から「法鼓山」と命名された。
法鼓山の宝物に「法華の鐘」がある。2006年12月23日に、法鼓山鐘楼落成記念式典が行われた。法華の鐘の材質は青銅の鋳造で、重量254.5トン、高さ4.5メートル、直径2.6 メートル、最も厚い箇所は29.6センチメートルで、唐様式の梵鐘である。2004年5月に日本の「老子株式会社」に鋳造を依頼し、2005年11月に完成した。
「法華の鐘」には梵鐘の内側外側に《妙法蓮華経》1部、69,636文字と、《大悲呪》1巻、424文字が鋳込まれ、「多宝塔と双仏陀坐像」が描かれている。
〈ウィキペディアより抜粋〉

 

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IN 龍の国ブータン

2011年7月31日

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ブータンでは国中、あちこちに「ダルシン」「ルンタ」とよばれる、白くて大きなのぼり状のものや、カラフルな五色の経文を印刷した旗が万国旗のようにはためいている。一回はためくと1回お経を読んだことになり、その功徳が風にのり、ひろがっていくと考えられているのだ。また寺院はもちろん、街中にも「マニ車」がたくさんある。これは経文が書かれた回転する筒で、下についている取っ手を持って時計回りに回す。マニ車が一回転するごとに1回お経を読んだことになる。

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首都ティンプーを離れ、標高3300メートルのドチュラ(峠)を超えてプナカとワンディーという町ヘ出掛けた。
ドチュラは前日の初雪で雪化粧。今日は曇天だが、天気が良いとヒマラヤが見えるそうで残念至極。プナカにあるゾン(プナカ・ゾン)はブータンのガイドブックの表紙になるような代表的な建物で大変に美しい。特に、大講堂の内装や壁画はブータン随一である。
ワンディーは、とてつもない田舎でとてものどか。田んぼで子供達がサッカーをしていたので入れてもらう。ボールにほとんど空気が入っておらずベコベコでびっくりした。リフティングすると、みんな不思議そうに見ていた。
今度はラワラ(峠)を超えてポプジカという谷へ。ラワラも3000メートルを超える標高で、ヤクが放牧されている。そこで初めてヤクシャ(ヤクの肉)を食べた。ビーフジャーキーに似ているが獣臭い。シッカムという豚の脂の固まりも食べたが、ロウソクを噛んでいるようだった。ポプジカでは、オグロツルを見ることができた。壮大な谷にはツルが何十羽も餌をついばんでいて、飛び立つときの美しいことといったら!時間が過ぎるのを忘れてしまった。
ティンプーの町に戻り、お土産にブータンの民族衣装を買った。男性用はゴといい、女性用はキラという。ブータンでは今でも、この民族衣装を日常的に着ている。文化を残すため、役人やガイドさんは着用が義務づけられているそうだ。ランチはヤクシャのハンバーガー。

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いよいよ今回研修のメイン、ブータンの聖地タクツァン寺院へ。タクツァン寺院は、山の上の絶壁にへばりつくように建てられている。パドマサンババ「別名グル・リンポチェ」が、仏教を弘めるために虎の背中に乗ってやって来た時に瞑想した場所である。タクツァンにたどり着くには約2時間の山登りをしなければならない。空気が薄いため息があがり頭もクラクラしたが、崖の上のタクツァンがだんだん近づいてくるのを励みに頑張ることができた。途中のレストハウスで昼食タイム。ここから見えるタクツァンはまさに絶景だった。そこからさらに石段を下って上って、やっとのことでお参りすることができた。ありがたさ倍増である。

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その後、山を下って、ブータン最古のお寺キチュラカンを参詣した。夜はドツォという焼き石風呂にも入り、ブータンの旅は充実の終了を迎えたのだった。
自然の美しさと人々の素朴さに心を洗われた旅だった。
私が出会ったブータンの人々は、上品で純粋でやさしく親切であった。皆、敬虔な仏教徒であり、仏教を生活の中心に据え、その教えに従って日々暮らしている。
この国の人々は「本当の良い生活とは、物質を多く享受する生活ではない。豊かな精神と文化を持つことである」と信じているのだ。
日本が発展していく間に無くしてしまったものがたくさん残っているブータン。これからそういうものが変化していってしまうかと思うと、残念で仕方がない。
近代化の波に乗り遅れ、明治・江戸時代さながらの農村生活を残してきたブータンが今、激変している。首都の町では携帯を持ち、韓国ドラマにはまって、ヘアースタイルを真似た若者であふれている。
お世話になったガイドのタンディンさんは、「日本が大好き。将来ブータンも日本みたいになってほしいと願っている。日本にはアメリカや中国に押されず、もっと強くなって貰いたい。」と話していた。お手本になれる日本でありたいものである。(達彦記)「終」 

IN 龍の国ブータン

2011年6月13日

Bhutan report 2

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ブータンの観光客受け入れシステムは独特で、一日滞在あたり200ドルかかる。旅行者は、ビザを取得する時点ですでに全行程の宿泊地、経由地を確定しておく必要がある。入国するには国営のドゥルクエアーしかないので飛行機の予約も難しい。出発前の手続きをしていた時は、なんだか割高で面倒な気がしていた。
しかし、その1泊200ドルという公定料金の中には、ホテル宿泊・3食の食事・移動の車・ドライバー・ガイド・ミネラルウォーターなどが含まれている。そしてこれらの手配はすべてガイドがやってくれる。
実際旅行してみると、煩わしさもなく、結構便利であった。
もちろん、超高級ホテルや豪華食事などもあるので、それを希望した場合は公定料金超過の分を実費精算する。私達は超過しなかったので、実質的には妥当な料金だったのではないかと思う。
さて宿泊するホテルに移動である。車窓からの景色は、一面に広がる棚田とポツポツと建つ家々。建物の柱や梁、窓枠などには彫刻がほどこされ、美しく彩色されている。一方、屋根を見るとほとんどが簡素なトタン屋根。のちに田舎に行った時には板に石を乗せてあるだけであった。
到着したホテルの室内は意外にきれいだった。ところが夜シャワーを浴びようとすると、お湯が出ない。その晩は初雪が降ったほどで、とにかく寒いのに水がちょろちょろとでるだけ。大声を出しながら気合いで身体を洗い流す。数年前の荒行堂と帰山式を思い出した体験だった。
ブータンは沖縄と同じくらいの緯度なのだが、標高が高いため、普段の気候は冬の東京と変わらなく感じた。
ブータンでは初雪がふると、翌日が休日になる。ブータンでオリジナルの切手が作れるというので楽しみに予定していた日が、運悪くこの「初雪休み」に当たってしまい、郵便局も閉まっていた。
二日目日、首都ティンプーの北部にあるチェリというお寺に行った。この寺は山の斜面に建っていて、たどり着くのに40分ほど歩かねばならなかった。標高が3000メートルほどの所にあるので、雲が近くすばらしい景色である。チェリには畳2~3畳ほどの小部屋が連なる建物がある。ここに3年間籠もって瞑想している修行僧がいるそうだ。3年間一切人と話さず目を合わすこともしない。世話係の僧が食(じき)を入り口に置いていくだけとのこと。いくら絶景で深山の瞑想場所といっても・・・。よほどの覚悟がないとできまい。現在日本人も一人修行をされているそうである。

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— ブータンの仏教と信仰 —
 
ブータン仏教はチベットから伝来したものである。信仰の対象は、釈迦如来、西暦700年頃チベット仏教をブータンに伝えたパドマサンババ「別名グル・リンポチェ」、そして1600年頃の建国の指導者シャプドゥン・ンガワン・ナムゲルである。チベット仏教は日本の仏教と違ってインドの後期仏教の影響が強く、お釈迦さまのほか、様々な如来・菩薩・観音さまが取り入れられているのが特徴。さらに色々入りくんでいて、わかりにくい。

ブータンの人に「お寺は何のためにあるのか?」と聞くと「世界平和」「人々の幸福」という大乗的な答えが返ってきた。「誰か困っている人が身近に一人でもいたら自分は心から幸せだとは思えない」とはいうものの、実際には自分の後世のための信仰も強いようだ。自分はなにものかの生まれ変わりであり、死んだ後も何ものかに生まれ変わってこの世に帰ってくるのだと信じている。お経を唱えたり、お寺にお参りに行ったりするのは、「世界平和」「人々の幸福」だけでなく、来世で少しでも良い境遇に生まれ変われるようにという願いのもとに行われているみたいだ。[つづく]

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IN 龍の国ブータン

2011年5月16日

Bhutan report 1

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先日、仏教研修のため、ブータンに行ってきました。
なぜブータンかというと、本納寺で何度か「科学実験教室」の講師をつとめて下さった小森氏が、JICA(国際協力機構)の調査員として首都ティンプーに赴任しており、以前から「是非来た方が良い」と誘ってくれていたからです。

ここで、まずはブータンの基礎知識を・・・。
ヒマラヤ山脈東側にあり、中国とインドに挟まれた山岳地帯に位置する国。高いところで標高は7000メートルで、街は2500から3000メートルくらい。富士山よりも高い標高3800メートルにも生活道路が走る。面積は九州よりやや小さく、人口は九州全域の5%に当たる約70万人。労働者の約7割が農業を営み生活している。チベットから影響をうけた敬虔な仏教国である。2006年までは鎖国状態の政策であった。
この国の国王は、仏教文化の伝統的なライフスタイルが国民の幸せにつながるとして、「国民総生産」よりも「国民総幸福」が大切と訴えている。
有名な話だが、国民の生活は、国連による貧困レベルを下回っているにもかかわらず、アンケート回答者の96%の人が「幸福だ」と回答したそうだ。 (私の会ったブータンの人の100%がそんなはずはないと言っていたが、、、)

羽田空港からバンコク経由で12時間かかって、ブータンの窓口パロ空港に到着。いよいよ「最後の秘境で昔の日本に出会える国」に上陸である。
パロに着いてゾンと呼ばれる城跡を見学。その大きさと美しさに圧倒される。このゾンは、半分は僧院、半分は役所として使われていて、入り口には六道(地獄から天上界)までが描かれた美しい色彩の巨大な壁画があった。輪廻転生を強く信仰しているようである。

ゾンを訪れたあとは町のレストランではじめてのランチ。どんなものが出てくるかドキドキしながら待つ。運ばれてきたのは赤米と、野菜の炒め物で、全体的に黒っぽい料理。食べてみると、ブータン料理は辛いと聞いていたが、これはそれほどでもなかった。また、よく見ると肉が入っている。
ブータンの人は殺生をしないが肉を食す。昔から山岳地帯では干し肉を保存食としていた。肉はほとんどインドから輸入しているのだ。つまり自分で手を下さければいいという解釈らしい。町なかで乱暴に枝を落とされた木を見かけた。斧とは鉈によって枝をぎざぎざに叩き切られたような有り様である。小森氏によると、薪にするため木を切るのだが、ギリギリのところまでは切るが最後の一打ちはせずに放置するのだそうだ。風や雨などの自然の力によって落ちるのを待つのである。こうすることで、殺生したことにはならないのだそう。
こんなエピソードも聞いた。ある時みずたまりの前に座っている人がいたので小森氏が覗いてみると、彼は溺れている何百匹という虫(日本の蚊ぐらいの小虫)を助け出そうと箸で一匹一匹外に出していたそうである。 このように、穏やかに穏やかに暮らしている人々が多い国なのである。
「この世の生き物は生まれ変わった誰かかもしれない」ので、殺生はしない。助け合いの精神が生きているので、ホームレスもいないという。
実際私達が出会ったブータンの人はみんな純粋で素朴でやさしい人ばかりであった。「つづく」

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仏教研修ー秘境ブータン

2011年1月22日

INブータン

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今仏教研修でブータンにいます。
敬虔な仏教国であるブータンに急遽来ることになり、信仰・文化・生活の違いにびっくり。
帰国したら詳しくレポートしたいと思います。

ブータン在住の小森君のコメント:
 今回、森部住職ほか3人のお坊さんが日本からブータンへ来訪されました。日頃日本人,日本文化に飢えている僕としては正直、とてもうれしいです。
 みなさん貪欲に仏教だけでなく、ブータンの自然・文化・社会を身をもって体験されてます。明日は僕も便乗させてもらってオグロ鶴とガンテ寺院で有名なポブジカという谷に行きます。

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