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カテゴリー「IN Nepal」の記事

IN Nepal 4

2017年11月20日

IN Nepal 4

 そのあとはパタンの町を散策です。パタン・ダルバール広場にある旧王宮を見学しました。16世紀から18世紀にかけて建てられたもので、周囲には寺院が立ち並び、世界遺産にも認定されています。地震で傾いてしまった塔は、つっかい棒で支えられていました。修復しようという気配はありません。日本の感覚では「立入禁止」のような所ですが、広場にはいろいろな店が出ており、観光客や地元の人たちで賑わっていました。また釈迦族が当番制で護っているという周辺のお寺にもお参りできました。
 カトマンズで滞在したホテルに、サッカーのネパール代表の技術委員長が滞在していると聞き、夕飯をご一緒させていただきました。現在、ネパール代表の監督、ならびに技術委員長は日本人なのです。話しているうちにT氏が私の大学の大先輩であることが判明。私と同地区でサッカーを指導していた時期もあったそうで共通の知人がいたり、ミャンマーでお会いした女子サッカー代表監督のK氏もご友人だったりで、いろいろと話が盛り上がりました。
ネパールのサッカー事情や言葉の違う国で指導する際の苦労話などの興味深い話も聞けました。
 嬉しい出会いだったので「先日サッカーをした中でとてもうまい子がいたので、スカウトしてあげて下さい」と頼んでおきました。その夜、先日お会いした釈迦族の方とヨーロッパサッカーの深夜放送を一緒に見る約束があったので、T氏もお誘いし、釈迦族の方のお宅で試合を観戦。楽しい思い出となりました。
 翌日はお釈迦様が誕生したといわれるルンビニーへは、飛行機で移動です。ネパールでは最近たて続けに小型機が2機墜落しており、自分が搭乗する飛行機の小ささ(プロペラ機の中型)を見た時、かなり動揺しました。日本の家族からも「気をつけて」とメールが来ましたが、気をつけようが無いので余計怖いという・・・。びくびくしながら乗りましたが、窓から見えるヒマラヤ山脈の美しさに、すっかり気分が良いフライトになりました。
 ルンビニーでは、まずカピラ城跡へ。かの有名な生老病死の四門出遊の場所です。
 城跡すぐのところに西門がありました。さらに奥に進んでいくと、僧院跡の遺跡、沐浴されていたという池があり、最後に東門跡がありました。お釈迦様がいた頃はどうだったのだろう、この門から出て,老人や病人を見たのだろうかなど、同じ場所に立ち2600年前に思いを馳せました。
 そしてマヤ堂にお参りです。
マヤ夫人の脇の下から生まれたお釈迦様が、すぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた伝説の場所です。門からは土足厳禁。裸足にならなくてはいけません。
中に入るとかつて城壁だったであろうレンガの山があり、その中に、お釈迦様が初めて地に触れたとされる場所がありました。その部分だけガラスで保護されています。またまた、タイムスリップ。ゆっくりと深呼吸をして、謹んで手を合わせました。
 それからは車で7時間の大移動。お釈迦様涅槃の地、インドのクシナガラに向かいました。国境を越えるとがらりと雰囲気が変わりました。道路の舗装がなくなり、ネパールに荷物を運ぶトラックの長い列、我先に行こうとする車のクラクション、埃だらけの商店街、よどんだ空気、行き交う人の多いこと!
腰痛を押しての渡航だった私にとっては、未舗装の道路行はかなり辛いものになりました。
 夕方になってクシナガラ着き、涅槃堂に参拝。
中に入ると、全長6mの涅槃仏が横たわっていました。5世紀初頭のものといわれています。この涅槃像は足下から拝すると死んでいる顔に、中心から拝するとやさしく平和な顔に、顔の前から拝すると笑顔に見えると説明を受け、そう思って拝してみると確かにそのように見えました。
 お堂に座して、謹んで一読。涅槃像のまわりは座って瞑想する集団や読経をする僧侶・仏教徒でいっぱいで、ミャンマー・韓国・ネパール・台湾・ベトナムなど世界各国からの参詣者が絶えないようでした。
 お供え物は頭部付近に、灯明やお香は中心部にお供えされていて、お像には、緋や木欄色の布が幾重にも布がかけられています。閉堂時間になり、涅槃堂の僧侶がお像に掛けられていた布をかたづけていたので、帰り際に覗くと、最後の一枚は金色でした。
 それとインドですから食事はもちろんインドカレー。本場のカレーはとても美味しかったです。
 最終日は地震被災地の視察です。まずカトマンズの王宮跡、ダルバール・スクエアーへ。世界遺産にも指定されていますが、かなり損壊が見られ、以前の写真と見比べると、その姿の違いに驚きます。いくつかあったはずの塔の頭がなくなっていました。次は、カトマンズ郊外のブンガマティという町へ。このあたりは農家が多く、地震がきた昼は、ほとんどの人が畑に出ていて屋内にはいなかったそうですが、それでも数人の死者が出ています。建物はほぼ全壊で、以前町の中心に寺院が立っていたと聞いたときは信じられませんでした。その痛々しく崩壊したままの場所で、何事も無かったように元気よく遊んでいる子供たちの姿には複雑な気持ちになるものです。
 近くへ行ってみると、崩れたレンガの中からまだ使えそうなレンガが拾い集められていました(カトマンズ周辺いたるところでも同様)。それをまた昔と同様にセメントや粘土で積み上げていくのだそうです。また地震がきたら同じ事になってしまうのではないでしょうか。
 地震によって町や家が壊れても、電気やガスがなくても、みんな前向きに生きているネパール。危機的な状況にも関わらず、それを受け入れて生活していくネパール人のポジティブさを肌で感じ、支援に行ったつもりが反対に元気をもらって帰って来た旅となりました。「達彦記」(終)


IN Nepal 3

2017年10月18日

IN Nepal 3


(IN Nepal 2より続く)
 翌日は、カトマンズから車で1時間半くらいのトリブバン・アダーシャ小中学校に行き、サッカーゴールとボール・ユニホームを寄贈しました。
 全校生徒が校門から列をなして待ってくれていました。門に入る前に、歓迎の印のカタ(襟巻きみたいなもの)を首にかけてもらい、列の中を進んでいきます。子供たちが口々に「ナマステー、ナマステー」と迎えてくれるので、こちらも合掌しながら「ナマステー、ナマステー」とご挨拶しました。
 校庭での寄贈式では、まず、子供たちの発育と幸福を祈り、ご祈祷を厳修。その後「私たちはサッカーを契機にして、みなさんと出会えることができて幸せです。サッカーは、ボールひとつで、言葉が通じなくても、年が違っても、性別が違っても、人を結びつけることができます」とお話しし、ボールとユニホームを渡しました。
 早速、お互い着替えてサッカーの試合開始です。支給されたユニホームに身を包んだネパールチームが登場しました。我々日本チーム(保育士さんたちも出場)とネパールチームとの国別対決で「絶対に負けられない戦い」です。お互い握手を交わし、ギャラリーにも挨拶。このやりとりに彼らは照れながらも嬉しそうです。
 いよいよキックオフ。開始早々、ネパールチームにいきなり攻め込まれ、日本チームまさかの失点。サッカー部OBが3人いたので大丈夫だと油断していました。目を輝かせてボールを追いかける子どもたち。良いプレーをジェスチャーで褒めると得意顔です。心からサッカーを楽しんでいることが伝わってきてこちらも嬉しくなります。慌てて反撃を試みましたが、奮闘虚しく結果1-4で負けてしまいました。
なかなか上手な選手もいて、このようなでこぼこのピッチではなく、もっと良い環境であれば、かなり上達するだろうと思いました。
 「好きなサッカーで、子供たちを笑顔にしたい」という気持ちから始まったこのサッカー支援ですが、ミャンマーに続いてネパールでも想いを叶えることができて感激したひとときでした。
 次はパタンにあるバッサラ保育園を訪問しました。ここでもまた入り口でカタを掛けてもらい、子供たちの列の間を進み、「ナマステー」とご挨拶。ステージで踊りや歌を披露してくれました。保育園くらいの子供たちによるかわいい踊り、小学生くらいの子供たちは、お化粧をして、衣装をつけてのネパールの民族舞踊、中学生くらいの子供たちは日本の「四季の歌」を歌ってくれました。
 ここは尼僧さんが運営している施設で、地震があってからは、保育園のほか、小中高生(12年生)を引き受けているそうです。それほど大きくない施設に、現在500人の生徒がいるそうです。園長先生は「地震によって親をなくした子がいますが、卒園生が立派になって、国や経済の中心で働いているのが誇りです」とおっしゃっていました。
 お土産に持って来た日本のお菓子を保育士さんたちが子供たちに配って、大変喜ばれました。
 帰国後ネパールからメールが届きました。
「今回の釈迦族支援で、釈迦族のなかで、困窮して学校に通えない子どものうち、一名が通学することになりました。シュリーニシュ君は11歳。5年生でパタンに住む釈迦族の子どもで、今回の地震で住居に大きな被害を受けました。両親は経済困窮者で、彼を通学させることができませんでしたが、今回訪問して下さったバッサラ学校の校長にお願いして、4月18日から同校の新学期に入学することができました。大変優秀で、テストで75点とりました。深く感謝申し上げます。」
お役に立てて本当に良かったです。「達彦記」(つづく)


In Nepal 2

2017年8月21日

IN Nepal 2

 謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修したあとは、居間に移動し、お食事を待つ間、釈迦族の昔話からなるお話が聞けました。
 「2600年も昔の話。コーサラ国の王が釈迦族の妃を釈迦国から迎えたいと願ったが、釈迦族はプライドが高く、釈迦族同士の婚姻しか認めない。血を混ぜない、あんな国に嫁入りさせるなんて等々という理由もあって、深く悩んだ末、大臣が「召使いの中に、とびきりの美人がいるので、身なりを整えさせ、私の養女として迎え、王族の娘として嫁入りさせればいい」と考え、その女性をコーサラ国へ出した。
 王とその女性の間には、息子(王子)が生まれた。王子が8才の時、故郷の釈迦国に訪れた際、自分が召使いの子であると知ってしまった。カースト制のある時代ではとんでもないことに王子は憤慨し釈迦族に恨みを抱きコーサラ国に戻った。やがてコーサラ国の王が亡くなり、自身が王位につくと釈迦族を攻めて壊滅させた。その時釈迦族の人たちが流した血は湖になったと伝えられている」あくまで釈迦族の人たちからの話ではありますが、その時、命からがら逃げのびて、今のカトマンズの山麓にたどりついた末裔の人たちがその日そこに集まった人々ということでした。※1

 釈迦族の末裔の人々は手先が器用で、ネパールの伝統技術集団です。パタンの町の細く狭い路地を歩くと、レンガ作りの家からは「カチカチカチ」と彫金の音が響いていました。工房では、数百年間続くシンプルな道具を以て、繊細な彫金によって仕上げていく多くの行程を見ることができ、数百年の歴史を守り今に伝えています。
 また、釈迦族のきまりとして、必ず男性は皆、出家するそうです。現在は、「釈迦族だから」「仏教徒だから」という差別は無く、釈迦族は現在50万人いるとのこと。ただ釈迦族同士の婚姻だけではなくなっているので、純粋な釈迦族は少なくなっているそうです。日本で聞いてきた「差別や貧困で困っている」という話と違うな…と思いながらも、興味深くお話を伺いました。

 ネパール家庭料理、ダルバード(豆カレー)や野菜の炒め和え物が並びました。気を遣ってくれたのか、あまり辛くはありませんでしたし、スパイスが効いていて非常に美味しかったです。ネパールの家庭で飲まれている伝統的なお酒、エイラも勧められました。これは米焼酎のようなもので、アルコール度数は70度!火を付けたら炎が出て、電気不足で薄暗い部屋に美しく灯っていました。彫金加工されたドリップポットを上に掲げ、下の盃(これも美しい彫金加工)に注いだものを飲むのです。お酒の飲めない私は舐めるだけでしたが、舌が痛くなるくらいカーッとしました。他のメンバーは「これは美味しい!でも、きついねー」と言っていました。
「達彦記」(つづく)

※1コーサラ国王は釈迦国に攻め込む途中、お釈迦様に出会います。そこで説法を聞いた王は兵を引き下げました。しかし、また怒りがこみ上げ釈迦国を攻めようとします。するとまたお釈迦様に出会い、兵を下げました。同じことが三度あったのですが、四度目にはお釈迦様の姿は見えませんでした。弟子の目連が神通力でカピラ城(釈迦国)を救おうとしたのですが、「釈迦族の積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」とお釈迦様はおとどめになりました。お釈迦様は三度目まではかつての故郷、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力されたのですが、四度目には因果応報の理にまかせられたのです。ここから「仏の顔も三度まで」と言われるようになりました。

IN Nepal 1

2017年7月29日

IN Nepal

仏教支援で、ネパールに行って来ました。
ネパールには今も、お釈迦さまの子孫である釈迦族(サーキャ族)が生活しています。
釈迦族はその昔、強国であった隣のコーサラ国によって滅ぼされたとされていますが、その生き残りの子孫です。インド同様にヒンズー教が強いネパールでは、仏教徒である釈迦族は虐げられ、大変な生活をしているということから、その支援でネパールへいくことになったわけです。
また、先の地震で被災したネパールの子供たちへ、前回のミャンマー同様、現地の保育園・小学校を訪問し、食料品・備品などの支援をして、一緒に遊んで楽しんでもらうことも目的でした。今回は、いつもの僧侶メンバーに加え、N保育園の保育士さん2名、そして私がコーチしている地元中学校のサッカー部OB3名が参加し、総勢9名での訪問になりました。
トランジットを含め17時間をかけ、首都カトマンズに到着。朝晩は冷え込みますが、日中は少し暑いくらいで日本と変わりません。山岳地帯だからか、東南アジア特有の「もわっ」とした湿気も感じられませんでした。
まずは車に乗って、ガイドのスメットさんのお宅へ向かいました。ガイドさんご自身が釈迦族で、彼のお宅に釈迦族の皆さんが集まってくれているとのこと。
旅行前に、ネパールをよく知る友人から、「道がデコボコ」「電気事情が悪い」など、ネガティブな情報を聞いていたのですが、いざ町中に出ると、道は思っていたよりも平らでした。それでも日本に比べればそれはそれはガタガタで、空は砂・土埃なのか、もやがかかっています。何より目についたのは、何本も複雑に張り巡らされている電線でした。どれがどこにつながっているか全くわかりません。ぐしゃぐしゃにからみあっています。道にはお店がたくさん建ち並んでいて、歩行者だけでなく、座り込んで道を眺めている人や、集団であれこれ喋っている人たちでいっぱい。信号の無い車道もかなりのバイクや車が行き交い、クラクションが鳴り響いています。
しばらく行くと、長い長いバイクの行列が目に入ってきました。ガソリンを待つ列なのだとか。東日本大震災があった時、日本でも流通が止まり、ガソリンスタンドに行列ができたことを思い出して、納得しかけると、なんと、この行列は地震の影響ではないということ。
インドからの輸入に多くを頼っているネパールの物資不足は深刻化しており、特にガスとガソリンはすべてインドからの輸入のため、両国の関係が悪い現在、入手が困難になっているとのことのでした。この列だと1日待っても入手できないのではないでしょうか。
またその資源不足により、ネパールでは一日のうち14時間は停電している状態でした。ホテルでは自家発電なので、私たちには影響はありませんでしたが。
そうこうしているうちにガイドのスメッドさん宅に到着です。予想外の豪邸。あれ?聞いてきた「大変な生活」は???と考えているうちに、仏間に案内されました。そこには30人ほど釈迦族の方々が集まっていて「ナマステー」と出迎えてくださいました。お釈迦様の子孫と会えたことに感激しました。そして、まずは謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修いたしました。「達彦記」(つづく)


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