2026年3月
« 2月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

アクセスカウンター

  • 245872今までのアクセス数:

カテゴリ

カテゴリー「In Sri Lanka」の記事

In Sri Lanka 4

2026年3月17日

In Sri Lanka 4

(In Sri Lanka 3より続く)

ここから2日間は、世界遺産の仏教遺跡・寺院巡りです。
かつてスリランカの宗教の中心部であった古都ポロンナルワ※(1)には、仏塔や寺院など11個の遺跡建造物がありました。石窟内にあるダンブッラの黄金寺院※(2)は、多くの仏像と共に、色鮮やかな壁画に彩られていました。仏歯寺※(3)は王朝最後の都キャンディにあり、その名の通りお釈迦さまの犬歯(仏歯)が納められていました。平日にもかかわらず観光客だけでなく多くの人がお参りに来ています。門前で参拝用の花を売っており、どの寺院も遺跡も、供花でいっぱいでした。スリランカの人々と仏教が寄り添っている証拠であり、敬虔な仏教徒の篤い信仰を集めるとともに、聖地としてスリランカの人々の心の拠り所となっているのでした。
道中、対向車線の車がパッシングをしてきます。この先でねずみとり(速度取り締まり)でもしているのですか?とドライバーに尋ねると、これは「野生の象がいる合図」とのことでした。少し先で、本当に象が道の端を走っていました。スリランカでのパッシングはねずみではなく象注意の喚起でした。国によってパッシングの意味が違って面白い!
アーユルヴェーダも体験しました。アーユルヴェーダとはサンスクリット語のアーユス(Ayus/生命)とヴェーダ(Vada/科学)を組み合わせた言葉で、直訳すれば『生命科学』のこと。5000年前にインド・スリランカで発祥したといわれる伝統医療です。体質に合わせた薬草オイルを用いたマッサージ施術が中心で、中でも「シロダーラ」といって、マルマと呼ばれる眉間のツボに一定の時間温めたオイルを流す施術は、別名「脳内マッサージ」として有名です。脳を瞑想状態に導き、リラックスさせることで、ストレスを解消する効果があるのだそうです。
施術を受けた感想は・・・目の裏がジューっとして半分寝ているような状態がつづき、ずっと続けてほしかったーと思うほど気持ちのいいものでした。日本でもアーユルヴェーダは人気のようで、調べたらすぐ近くの池袋にもありました。値段はスリランカの2倍ですが。
楽しかった旅もあとは日本に帰るだけとなりました。飛行機が離陸してしばらくすると「コロンボの空港に戻る」という機内アナウンスが・・・。結局スリランカの上空を3時間クルグルと旋回し、やっと着陸したかと思ったら機内で食事が配られ、機体から降ろしてもらえません。ようやく降ろされた乗客たちが待合ロビーで何があったんだろうと話していたところに、遅延の原因説明は一切ないまま、「再出発は12時間後の翌朝7時です」というアナウンスがありました。
空港の床にビニールを敷きカバンを枕にして横になっていると、「今から掃除をするからそこをどいて」。掃除の係に邪魔にされながら夜を明かし、12時間後に無事に帰国の途につきました。
急に誘われて何の下調べもできなかった分、スリランカでの出来事はすべてが刺激的で感動的でした。たくさんの出会いと経験があり、ありがたいご縁に感謝する旅となりました。「達彦記」(終)

※(1)インドのチョーラ王朝の侵略により首都のアヌラーダプラを追われたシンハラ王朝が、ポロンナルワに都を移したのが11世紀。12世紀に王位を継いだパラークラマ・バーフ1世は、巨大な灌漑用貯水池や城壁を築き、国を固め、また仏教に深く帰依し寺院や仏塔を次々に建立。ポロンナルワは仏教都市として繁栄を極め、仏教文化の華が開きました。その中でも仏教美術の傑作と称されるのが、ガル・ヴィハーラにある巨岩に刻まれた三体の仏像です。左から穏やかな表情で瞑想する釈迦坐像、悟りを開いた釈迦立像(涅槃に入る釈迦を悲しむ一番弟子のアーナンダとの説も)、そして長さ約15mもある巨大な釈迦涅槃像が並んでいます。なだらかな線で彫り出された姿態と柔和な表情の仏像の前に立つと、心穏やかな気持ちになるでしょう。また坐像と立像の間の仏龕(ぶつがん)にも、ブラフマーやヴィシュヌなどヒンドゥーの神々に囲まれた坐像が安置されています。その後ポロンナルワは13世紀に廃都となり、壮麗な建造物もジャングルに埋もれてしまいます。しかし19世紀に遺跡の発掘が始まり、今ではスリランカでも屈指の美しい古都として知られるようになりました。豊かな水をたたえた貯水池と数々の遺跡が、英明君主と称えられるパラークラマ・バーフ1世の時代へといざなってくれます。
※(2)窟内いっぱいに横たわる全長14mの涅槃仏で有名な第1窟。全身は金色ですが足の裏が赤く塗られています。これには釈迦が赤土の地を歩いてスリランカにやって来たという説が。ちなみに左右のつま先がほんの少し不揃いなのが涅槃仏、きれいに揃っているのは休息中のお姿なのだそう。最大規模の第2窟は壁や天井一面に描かれた壁画が圧巻。 仏画やスリランカの歴史画で埋め尽くされ、その総面積は2100㎡にも及びます。また、岩山の頂近くにも関わらず天井からしたたり落ちる水滴は涸れることなく、「ダンブッラ(水の湧き出る岩の意味)」の名の由来もここに。聖なる水として儀式などに使われています。第3窟から第5窟は18世紀から20世紀にかけて造営された比較的新しい窟。第3窟にも涅槃仏が安置されています。
※(3)4世紀にインドからもたらされた仏歯は、聖なる遺物として王家に受け継がれ、遷都とともに移され、最後にキャンディ湖畔に佇む仏歯寺に落ち着きました。仏歯は7重になった黄金の舎利容器に納められています。参拝者は日に三度のプージャ(礼拝)に列を作り、ほんの数分間小窓から見える舎利容器の姿を拝むのです。この仏歯を納めた舎利容器は年に一度、7~8月頃に開催されるペラヘラ祭りで外に持ち出されます。舎利容器を載せた聖なる象を中央に、各地から集められた百頭もの象や伝統的なキャンディアンダンスのパレードが練り歩き、街中が沸き返ります。



InSri Lanka3

2025年2月9日

In Sri Lanka3


  翌日は寺院の日曜学校を訪問しました。北西部州クルネーガラのAhugoda寺にあるスリ・ダンマナンダ仏教学校(Sri dhammananda dhamma)です。
日曜学校は、小学校低学年から高校生まで、年代別にクラスが分かれていました。低学年の部屋では、みんなでお絵描きをしていたので話しかけると、照れてもじもじしています。「私も書いていい?」と聞いて、子供達のスケッチブックの端に、日本といえば「ドラえもん」かなと、ささっと描きました。しかしその後の子供たちの薄い反応からすると、どうやらドラえもんを知らないようでした。リサーチ不足!
お寺の境内には高学年生たちが大勢いて、肘でつつきあい押し出された子が代表で話しかけてきました。最初の質問は、「How old are you?」。あまり外国人と接する機会がなかったのかもしれません。生徒たちの前でお経を一読してこの学校を後にしました。
次は同じく北西部州にある日本語学校、スプートニク国際教育学院に移動。ここは日本のアナウンサー秋沢淳子さんが、語学教育をはじめとする様々なプロジェクトで、スリランカの青少年と日本人との交流をサポートしている学校です。日本の本をたくさん所蔵する図書室や広い多目的ホールなどもある素晴らしい環境でした。日本語を学ぶ生徒への就労支援にも力を注いでいて、見学した授業では介護について(介護の際に使う言葉も含む)の授業をしていました。綺麗に日本語で書かれたノートを見せてもらいながら、いずれ彼らが日本で活躍する日が来るのだなあと感慨を覚えました。
 続いてこのスプートニクが運営する女性孤児院を訪問。自分たちが置かれた境遇を悲観することなく、大変な世界で独り立ちできるような女性に育っていってほしいという思いで設立された施設です。高校生くらいまでの子が生活しており年上の子が下の子の面倒をよくみていたのが印象的です。施設の方から、彼女たちの日常や運営上のご苦労を伺ったあと、妙福寺からのお土産(吹き戻し笛と紙風船)を渡しました。キラキラした目で受け取る子供達。しばらくして、おとなしくしていることに飽きた子が、笛を吹き、紙風船をポーンポーンとやりはじめました。私も一緒になって遊んだのはいいのですが、盛り上がった彼女たちはいつまで経ってもやめてくれません。運動不足の私は、汗びっしょりで足もガクガクする始末。それでも彼女たちが楽しんでくれたのなら良し!です。 
 次の日は早朝5時に起床して、シギリヤ・ロック※へ。約1200段の階段を約40分登ると頂上です。シーズンオフで他に観光客がおらず貸切状態で、360度の大パノラマ眺望と美しい朝日を見ることができました。大混雑で人が連なる階段の様子をネット画像で見ていたので、嬉しさ倍増。早起きは三文以上の得!!
 ホテルに戻って朝食をとった後、両替に行ったATMの向こうに象ライドが見えたので、乗ってみることにしました。しばらく森を散歩して道を曲がると、なんと目の前にシギリヤ・ロックが!象の背中から見上げる景色もまた最高でした。が、当然ながらゾウの背中は大きくて幅広く、体が硬く股関節が開かない私には長時間の股割り状態が辛かったです。
その後は、牛飼の掛け声でゴトゴト進んでいく牛車に乗ってのビレッジツアーに参加しました。小さな湖に着き、そこからは小舟です。蓮華がたくさん咲く水面を進む中、船頭さんが花飾りや葉っぱの帽子などを作ってくれて楽しい写真が撮れました。到着した村では、薪の竃に乗せた鍋にココナツミルク・スパイス・豆などを入れて煮込む、本場スリランカカレー作りの実演を見学しました。そしてスリランカ料理が並んだテーブルで昼食です。衛生面を心配しながら(失礼!)も、とても美味しくいただきました。もちろんその後のお腹も無事でした。
 象の見張り用だというトムソーヤのツリーハウスのような小屋がありました。この村にはときおり夜に野生の象が現れ、住居を破壊したり人を襲ったりするそうです。象よけの空砲(竹筒にガソリンを入れて引火して鳴らす)や、椰子の葉で編む屋根の作り方など、現地の暮らしを感じる珍しい体験ができました。「達彦記」(つづく)
※スリランカで屈指の世界遺産がシギリヤ・ロックです。5世紀、父親を殺害し王位をものにした「狂気の王」カッサパ1世が、その罪の意識から逃れるように断崖の上に自ら築いた王宮シギリヤ・ロック。空中に浮かぶ要塞のような王宮で栄華を極めた王都の香りを今に残しています。1400年経っても今なお鮮やかに残るフレスコ画のシギリアレディー、綿密なシンメトリーの庭園など、卓越した建築美術が窺えます。カッサパ1世の死後、19世紀にイギリスの探検家が発見するまで1300年間ジャングルに閉ざされていました。

In Sri Lanka 2

2024年5月10日

In Sri Lanka 2

   コロンボ・ボレッラ墓地内には日本人墓地以外にも英連邦戦争墓地など多くの戦争墓が敷地内に分散しています。ドイツ商船員、ドイツ抑留民、オーストリア看護シスターなどの一般人から、第一次世界大戦の英連邦軍兵士が60人以上、第二次世界大戦の英連邦軍兵士が300人近く埋葬されているとのこと。
   案内された日本人墓地は、手入れされていないのでしょう、雑草が生い茂り、「大日本帝国海軍戦死者慰霊碑」と刻まれた碑の重々しさに堪え難い気持ちで慰霊法要を厳修しました。そのあと英連邦軍墓地にも足を運び、夥しい数の蚊に刺されながら読経してまいりました。
   コロンボでは、サロンを着て街を散策しました。これは一枚の円柱状の大きな布を腰のあたりに巻き込んで着る、巻きスカートのような民族衣装で、普段にも正装時にも着用します。東南アジア諸国に広く分布しており、そういえば以前行ったミャンマーでは同じものをロンジーと呼んでいました。
   ホテルにチェックイン後、夕食まで時間があったので、私は一人でトゥクトゥクに乗り、ペターという下町に出掛けました。生活雑貨や衣料品などの店が立ち並ぶ、大混雑のエリアです。その中を車やバイクが通りぬけるため、人の熱気&排気ガスのすごいこと。コロナ禍でなくてもマスクが必要でした。ぶらぶらお店を覗きながら歩いていたら、民族楽器屋を発見。見知らぬものばかりでしたが、弾き方はいずれYouTubeで研究すればいいかと、ラバナというタンバリンのような楽器と、ダルブッカという筒状の太鼓を、両方で3,000円ほどで購入し、楽しくホテルに戻りました。
   あとで聞いたところによるとペターはあまり治安がよくないエリアで、観光客が一人で出歩くところではなかったそう。しかし、サロンを着ている私に、何人もが「そのサロンいいね!」と声をかけてくれた、とても親しみの持てる町でした。
夕光の海に向かってバグパイプの演奏が響き、スリランカの国旗が掲揚された夕方6時、優子さんの知り合い、シターラさんと夕食をご一緒しました。シターラさんは日本語の上手な男性で、留学や就職など、スリランカと日本との橋渡しをしている方です。
   話しているうちにスリランカでのカーストの話になりました。インドほどではないものの16のカーストがあり、職業別に成り立っているとのこと。例えば、王様に仕える人、お米をつくる人、食事を用意する人、音楽をする人、洗濯をする人など、職業区分によってランクが決められているそうです。今でもカーストを意識している年配者と違い、若者たちは、もうあまり気にしていないとのことでした。ただ、お坊さんだけは例外で、7歳を過ぎれば誰でも出家ができるとはいえ、カーストが上の人しか教団に入れないため下のカーストで僧侶になる人はいないと教えてくれました。
  v各国の小学校を訪ねサッカー支援をしている私は、シターラさんに「該当しそうな小学校はないか」と相談もしました。いずれ彼を通じて再度スリランカを訪れる日がくることを願っています。
「達彦記」(つづく)

In Sri Lanka

2024年2月15日

In Sri Lanka

    友人から誘われ、このたびスリランカへ行ってまいりました。珍しく法事の予定がなく、またコロナもすこし落ち着いてきた時というグッドタイミングなお誘い。
 旅の目的は、戦没者慰霊と仏教寺院の日曜学校視察、仏教遺跡参拝で、五名のツアーです。
 日本から九時間半のフライトでコロンボのバンダラナイケ空港に到着しました。今夏の日本がとてつもなく暑いせいか、東南アジアのスリランカの方がちょっと過ごしやすく感じる不思議。
 公用語シンハラ語で「聖なる光輝く島」という意味を持つスリランカ。空港からホテルに向かう道すがら、早速その名のとおりの素晴らしいサンセットを見ることができました。
 さて、楽しみの食事はやはりカレーです。ダル(豆)、チキン、シーフードとさまざまで、ココナツで煮込む辛めのものが主流。お米はパラパラとした食感のインディカ米です。お皿の中央にごはん、その周りを囲うように数種類のカレーを盛るのがスリランカカレーのスタイル!ごはんとカレーを少しずつ混ぜ合わせ、味の変化を楽しみます。とても美味しいのですが、どこへ行ってもカレーばかり出てくるものですから、旅の終わり頃には、カレーはもう・・・という感じでした。
 初日はニゴンボという漁港町に宿泊です。
 朝食後、さっそくフィッシュマーケットの見学に行きました。種類も豊富なギラギラした魚たちが台の上に並べられています。アジ・カツオ・マグロ・タチウオ、イカや大きなカニなどなど・・・。気温も高く強い日差しが照りつける中、ときおり上から水をかけるだけの品質管理ですから当然魚のにおいもキツく、履いていたビーチサンダルについたにおいがなかなかとれず苦労しました。マーケットの先には漁港があり、周囲の砂浜に水揚げされた膨大な数の魚が開かれ干されています。まるで魚の絨毯のような光景でした。
 そのあと同行のYさんが以前ガイドしてもらったというサラットさんのお宅を訪問しました。「ガイド御殿」ともいえる豪邸には、本納寺の祖師像と同じくらい立派な釈迦像がありました。
 サラットさんが「コロナでガイドの仕事に大打撃を受け、体調を崩しガンになり、泥棒にも入られたりして、近年とても大変ではあったが、今こうして元気でいられるのはお釈迦さまのおかげです」と、さらりとお話になるのを聞き、スリランカの方の信仰の篤さを垣間見た思いでした。
 7割がシンハラ人、2割がタミル人、そして1割がスリランカ・ムーア人という構成のスリランカは、仏教を国教としながらも、ヒンズー教、イスラム教、キ
リスト教などさまざまな信仰を持つ人々が住んでいます。人口の約70%が仏教を信仰しており1,400万人の信徒がいるとされていますが、近年、中東資本の影響が強く、これに伴ってイスラム教が増加し、今後の仏教のありかたが危惧されているとのことでした。
 夕方には、ニゴンボラグーンの南部にある運河をめぐるサンセットクルーズに出掛けました。オランダ政権時代にスパイスなどの物資を運んでいた延べ長さ約 1 0 0キロメートルほどの運河で、周囲には当時建てられた教会や漁村があり、歴史を感じさせる観光スポットです。離れ小島には猿が生息しており、餌(椰子の実)をくれと寄ってきます。甲板に飛び乗った猿があまりに近くにくるので、少したじろいでしまいました。美しいニゴンボの緑や民家、地元の漁師の船を眺めながらゆったりとした時間を過ごせるのでおすすめです。
 翌日は、旅の目的のひとつ、コロンボ市内のボレッラ墓地の中にある日本人墓地に移動。今から80年前の1942年4月5日、日本海軍がコロンボを空襲、4月9日にはトリンコマリーを襲撃しています。これらを含む「セイロン沖海戦」※(1)で犠牲になった方々の慰霊に訪問したのです。敷地内には牛が放牧されていて、のどかに雑草を食べていました。「達彦記」(つづく)



 

※(1)日本から見て南方の連合国の重要軍事拠点(香港、マニラ、シンガポール)から米英勢力を一掃することと、重要資源地帯(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなど)を攻略確保することを目的としていました。この南方作戦の終盤に実施されたインド洋作戦において起きた戦いが「セイロン沖海戦」です。1942年3月8日、日本陸軍はビルマの首都ラングーン(現在のミャンマーの最大都市ヤンゴン)を占領し、全ビルマ制圧作戦を進めようとしていました。そのためには海路からの軍需品輸送が不可欠です。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがありました。

 

TOPへ戻る