終戦80年の知覧慰霊法要と平和への願い
2025年9月21日
開聞岳にまつわる記憶
2025年、終戦から80年を迎えました。
この節目の年、東京西部の昭和44年生まれの教師たちでつくる「六睦(むつみ)会」で、鹿児島県南九州市の知覧で「終戦80年 知覧特攻慰霊法要 並びに世界平和祈願法要」を行いました。
法要は、知覧特攻平和会館の平和観音堂と、特攻隊員たちが生活の中で親しんだ富屋食堂(現在の富屋旅館)にあるトメ観音堂で行われました。私はこの法要を通じて、亡くなった特攻隊員をはじめ、戦争犠牲者の冥福を祈ると同時に、戦争の悲しみや平和の尊さを次の世代に伝えていく大切さを改めて確認しました。
知覧は、太平洋戦争の末期、沖縄戦で出撃する陸軍の特攻隊の最大の基地でした。昭和20年3月以降、全国から多くの若者が集められ、10代後半や20歳前後の隊員も少なくありませんでした。彼らは、飛行機の右の翼に250キロの爆弾を、左の翼に同じ重さの燃料を積み、約650キロ先の沖縄まで2時間半かけて飛びました。
その途中で目にするのが、薩摩半島の南端にそびえる開聞岳です。標高924メートルのこの山は、きれいな円すい形の姿から「薩摩富士」と呼ばれています。しかし特攻隊員にとっては、その美しい山は「もう戻れない」という覚悟を決める瞬間の象徴でもありました。証言によると、彼らは海岸線を越えるとき、開聞岳を何度も振り返りながら出撃していったといいます。
特攻隊員たちの出撃前の生活を支えたのが、軍の指定食堂である富屋食堂でした。女将の鳥濱トメは、隊員たちを我が子のように大切にし、私財を投じてまで世話をしました。その姿から「特攻の母」と呼ばれ、今も知覧の戦争の記憶の中で語り継がれています。
終戦から80年経った今も、世界では戦争や紛争が続いています。ウクライナや中東での戦闘は収まらず、多くの人々が命を落としています。こうした状況を見ると、戦争は過去の出来事ではなく、今も現実に起こっていることだと痛感します。そして、戦後の日本では、戦争を直接体験した人が少なくなり、その悲惨さを実感として理解することが難しくなってきています。
戦争の記憶が薄れていくことは、再び戦争を許してしまう危険につながります。だからこそ、知覧のような慰霊の場や平和資料館は重要な役割を果たします。特攻隊員が見た開聞岳や、富屋食堂での交流の話は、戦争がどれほど人の命や日常を奪うのかを具体的に伝えてくれます。
今回の知覧での慰霊法要は、亡くなった人々を悼むだけでなく、戦争の記憶を現代に伝える大切な時間となりました。開聞岳を振り返った若者たちの姿を思い浮かべると、二度と同じ過ちを繰り返してはならないという気持ちが強くなります。
平和は、ただ願っているだけでは守れません。歴史を学び、語り続けることが必要です。過去の出来事を忘れず、次の世代に伝えていく努力こそが、戦争のない未来をつくるための第一歩です。
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