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In Sri Lanka 2

2024年5月10日

In Sri Lanka 2

   コロンボ・ボレッラ墓地内には日本人墓地以外にも英連邦戦争墓地など多くの戦争墓が敷地内に分散しています。ドイツ商船員、ドイツ抑留民、オーストリア看護シスターなどの一般人から、第一次世界大戦の英連邦軍兵士が60人以上、第二次世界大戦の英連邦軍兵士が300人近く埋葬されているとのこと。
   案内された日本人墓地は、手入れされていないのでしょう、雑草が生い茂り、「大日本帝国海軍戦死者慰霊碑」と刻まれた碑の重々しさに堪え難い気持ちで慰霊法要を厳修しました。そのあと英連邦軍墓地にも足を運び、夥しい数の蚊に刺されながら読経してまいりました。
   コロンボでは、サロンを着て街を散策しました。これは一枚の円柱状の大きな布を腰のあたりに巻き込んで着る、巻きスカートのような民族衣装で、普段にも正装時にも着用します。東南アジア諸国に広く分布しており、そういえば以前行ったミャンマーでは同じものをロンジーと呼んでいました。
   ホテルにチェックイン後、夕食まで時間があったので、私は一人でトゥクトゥクに乗り、ペターという下町に出掛けました。生活雑貨や衣料品などの店が立ち並ぶ、大混雑のエリアです。その中を車やバイクが通りぬけるため、人の熱気&排気ガスのすごいこと。コロナ禍でなくてもマスクが必要でした。ぶらぶらお店を覗きながら歩いていたら、民族楽器屋を発見。見知らぬものばかりでしたが、弾き方はいずれYouTubeで研究すればいいかと、ラバナというタンバリンのような楽器と、ダルブッカという筒状の太鼓を、両方で3,000円ほどで購入し、楽しくホテルに戻りました。
   あとで聞いたところによるとペターはあまり治安がよくないエリアで、観光客が一人で出歩くところではなかったそう。しかし、サロンを着ている私に、何人もが「そのサロンいいね!」と声をかけてくれた、とても親しみの持てる町でした。
夕光の海に向かってバグパイプの演奏が響き、スリランカの国旗が掲揚された夕方6時、優子さんの知り合い、シターラさんと夕食をご一緒しました。シターラさんは日本語の上手な男性で、留学や就職など、スリランカと日本との橋渡しをしている方です。
   話しているうちにスリランカでのカーストの話になりました。インドほどではないものの16のカーストがあり、職業別に成り立っているとのこと。例えば、王様に仕える人、お米をつくる人、食事を用意する人、音楽をする人、洗濯をする人など、職業区分によってランクが決められているそうです。今でもカーストを意識している年配者と違い、若者たちは、もうあまり気にしていないとのことでした。ただ、お坊さんだけは例外で、7歳を過ぎれば誰でも出家ができるとはいえ、カーストが上の人しか教団に入れないため下のカーストで僧侶になる人はいないと教えてくれました。
  v各国の小学校を訪ねサッカー支援をしている私は、シターラさんに「該当しそうな小学校はないか」と相談もしました。いずれ彼を通じて再度スリランカを訪れる日がくることを願っています。
「達彦記」(つづく)

In Sri Lanka

2024年2月15日

In Sri Lanka

    友人から誘われ、このたびスリランカへ行ってまいりました。珍しく法事の予定がなく、またコロナもすこし落ち着いてきた時というグッドタイミングなお誘い。
 旅の目的は、戦没者慰霊と仏教寺院の日曜学校視察、仏教遺跡参拝で、五名のツアーです。
 日本から九時間半のフライトでコロンボのバンダラナイケ空港に到着しました。今夏の日本がとてつもなく暑いせいか、東南アジアのスリランカの方がちょっと過ごしやすく感じる不思議。
 公用語シンハラ語で「聖なる光輝く島」という意味を持つスリランカ。空港からホテルに向かう道すがら、早速その名のとおりの素晴らしいサンセットを見ることができました。
 さて、楽しみの食事はやはりカレーです。ダル(豆)、チキン、シーフードとさまざまで、ココナツで煮込む辛めのものが主流。お米はパラパラとした食感のインディカ米です。お皿の中央にごはん、その周りを囲うように数種類のカレーを盛るのがスリランカカレーのスタイル!ごはんとカレーを少しずつ混ぜ合わせ、味の変化を楽しみます。とても美味しいのですが、どこへ行ってもカレーばかり出てくるものですから、旅の終わり頃には、カレーはもう・・・という感じでした。
 初日はニゴンボという漁港町に宿泊です。
 朝食後、さっそくフィッシュマーケットの見学に行きました。種類も豊富なギラギラした魚たちが台の上に並べられています。アジ・カツオ・マグロ・タチウオ、イカや大きなカニなどなど・・・。気温も高く強い日差しが照りつける中、ときおり上から水をかけるだけの品質管理ですから当然魚のにおいもキツく、履いていたビーチサンダルについたにおいがなかなかとれず苦労しました。マーケットの先には漁港があり、周囲の砂浜に水揚げされた膨大な数の魚が開かれ干されています。まるで魚の絨毯のような光景でした。
 そのあと同行のYさんが以前ガイドしてもらったというサラットさんのお宅を訪問しました。「ガイド御殿」ともいえる豪邸には、本納寺の祖師像と同じくらい立派な釈迦像がありました。
 サラットさんが「コロナでガイドの仕事に大打撃を受け、体調を崩しガンになり、泥棒にも入られたりして、近年とても大変ではあったが、今こうして元気でいられるのはお釈迦さまのおかげです」と、さらりとお話になるのを聞き、スリランカの方の信仰の篤さを垣間見た思いでした。
 7割がシンハラ人、2割がタミル人、そして1割がスリランカ・ムーア人という構成のスリランカは、仏教を国教としながらも、ヒンズー教、イスラム教、キ
リスト教などさまざまな信仰を持つ人々が住んでいます。人口の約70%が仏教を信仰しており1,400万人の信徒がいるとされていますが、近年、中東資本の影響が強く、これに伴ってイスラム教が増加し、今後の仏教のありかたが危惧されているとのことでした。
 夕方には、ニゴンボラグーンの南部にある運河をめぐるサンセットクルーズに出掛けました。オランダ政権時代にスパイスなどの物資を運んでいた延べ長さ約 1 0 0キロメートルほどの運河で、周囲には当時建てられた教会や漁村があり、歴史を感じさせる観光スポットです。離れ小島には猿が生息しており、餌(椰子の実)をくれと寄ってきます。甲板に飛び乗った猿があまりに近くにくるので、少したじろいでしまいました。美しいニゴンボの緑や民家、地元の漁師の船を眺めながらゆったりとした時間を過ごせるのでおすすめです。
 翌日は、旅の目的のひとつ、コロンボ市内のボレッラ墓地の中にある日本人墓地に移動。今から80年前の1942年4月5日、日本海軍がコロンボを空襲、4月9日にはトリンコマリーを襲撃しています。これらを含む「セイロン沖海戦」※(1)で犠牲になった方々の慰霊に訪問したのです。敷地内には牛が放牧されていて、のどかに雑草を食べていました。「達彦記」(つづく)



 

※(1)日本から見て南方の連合国の重要軍事拠点(香港、マニラ、シンガポール)から米英勢力を一掃することと、重要資源地帯(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなど)を攻略確保することを目的としていました。この南方作戦の終盤に実施されたインド洋作戦において起きた戦いが「セイロン沖海戦」です。1942年3月8日、日本陸軍はビルマの首都ラングーン(現在のミャンマーの最大都市ヤンゴン)を占領し、全ビルマ制圧作戦を進めようとしていました。そのためには海路からの軍需品輸送が不可欠です。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがありました。

 

IN LAOS/CAMBODIA 4

2019年7月21日

IN LAOS/CAMBODIA 4


 フライト1時間半でカンボジア・シュリムアップへ。 アンコールワットの朝日を見るために早起きです。日の出近くになってあたりが次第明るくなってきました。ちらりと赤い光が見えたと思ったら、朝日の円を確認できないうちに雲の中へ入ってしまいました。一旦ホテルにもどるため門を出て振り返ると、遺跡の上に雲から出た朝日が見えました。ラオスの丘の夕日といい今回は日の出日の入り見物には恵まれなかったのかもしれません。行程中、終始天気は良かったのでよしとしましょう。

   アンコール遺跡については以前、寺報・ブログで紹介しているので省略します。参照「IN CAMBODIA / VIETNAM」

 今ツアー2カ所目のサッカー支援のため、シュムリアップのKURATA SCHOOLに訪問。カンボジアの気候はラオスとは全く比べものにならないほどの湿気と暑さでした。そんな中でラオス同様、寄贈式があり、子供達の発育健全のご祈祷とご挨拶をいたしました。カンボジアも多数が仏教を信仰しているだけあって、みんな合掌で迎えてくれました。

 いよいよサッカーの時間です。狭くデコボコしたピッチのため、6人で臨むことになりました。

 現在のカンボジアサッカーのナショナルチーム監督は日本代表の本田圭祐選手が務めています。今度はみんな代表戦を見たことがあるようで、サッカーアンセムによる入場は、それなりの雰囲気でできました。レフリーは、たまたま同校に体育教育支援でいらしていたアメリカ人女性が務めてくれました。

 握手を交わし、キックオフ。序盤はしばらく様子見だったのですが、いきなり左サイドからニアポストを抜かれ、失点。負けずにこちらもピッチをあげて、一点を返し、そのあとも追加点を重ねていきました。真剣にボールを追いかけている子供達、ちょっとしたプレーを褒めると、照れながらもとても嬉しそうな顔をします。来て良かったと実感しました。

 ただ、40度を超えるピッチに、みんなフラフラになってきました。しかもデコボコのグラウンドは腰に響きます。ごまかしながらもなんとか試合をこなしてようやく試合終了。

 すると、見学していたアメリカの体育教育支援団体(KPI organization)チームが、試合を申し込んできました。サッカー部の教え子を振りかえると「やりますよ」という顔でこちらを見ています。滝には飛び込まなかったのにと思いながら、少々の休憩の後、試合が始まりました。カンボジアの地でUSA vs JAPANの「決して負けけられない戦い」です。大差をつけてきっちり勝利したことをご報告いたします。

 最後にゴール前でみんなと記念撮影。日本チームの寄書きユニホーム、お菓子を小学校に贈呈し、今支援ツアーの終了となりました。アメリカチームからも寄書きシャツのお返しがあって、日本、カンボジア、アメリカの小さな友好の証としていい記念になりました。

 私たちのラオス・カンボジア2カ国の小学校訪問は、彼らの人生においては、ほんの小さな出来事でしょう。でも、このことが日本に親しみを持つきっかけになったり、「日本の人たちが来て一緒にサッカーをしたんだよ」という楽しい記憶の一片になれば嬉しいです。我々も同じだけ幸せな時間を過ごすことができました。今回のいろいろな出会いに心から感謝します。「達彦記」(終)


IN LAOS/CAMBODIA 3

2019年6月2日

IN LAOS/CAMBODIA 3


 次の日(4日目)は、托鉢の僧侶にご供養するために早起きしました。 若い僧侶、子供の僧侶が黄衣(オレンジ色)をまとい、裸足で鉄鉢を抱え、終始無言で歩いてきます。ラオスの戒律を重んじる仏教(上座部)では食事は1日2回。僧侶の食事はその朝の托鉢によって成り立っているのです。

 托鉢する道端にはゴサの上に椅子が並べられていました。通りには、竹籠にもち米を入れて売る小さな屋台があちこちに。私達は袈裟のような布を肩に掛け、僧侶を待ちました。しばらくすると、僧侶達がやってきて、鉢をこちらに向けて来たときにもち米を少しずつ入れていきます。観光客向けに大分アレンジされているとはいえ、「亡くした両親や先祖が貧しい思いをしないように」と、毎朝お布施を続ける人々の姿がありました。また、托鉢をしているお坊さんが、受け取った食べ物を、困っている子供に分け与えている姿もあって、非常に印象に残りました。ラオスではストリートチルドレンを見ることはありません。それはこのように、お寺が貧しい子供たちの受け皿となっているからだそうです。戒律の厳しい上座部仏教に倣って生きるラオスの人たちに当たり前に根付いている「分け合う心」を垣間見られた瞬間でした。なお、おかずは信者が寺院に直接、喜捨し届けるそうです。

 次の行程はワットマイ・ワットシェントンです。ワットマイはルアンパバーンの中で最も美しいと言われる寺院です。完成に約50年を要した寺院内には体中に彫刻が施された仏像が安置されていて、世界遺産になっています。ワットシェントンは王家の菩提寺で、屋根が軒に向かって低く流れるように作られている、典型的なルアンパバーン様式の荘厳な建物です。王様が逝去した時に使用された霊柩車が境内に納められています。ご遺体は、なんと起立したままの状態で出棺されたと聞き驚きました。

 王宮博物館を見学したあと、メコン川を船で上り、パクウー洞窟へ。道中の景色はいわゆるアジアの風情で、とてもきれいでした。川の水以外は、、、。旅行中、何度もメコン川を見ていますが、改めて「茶色いなぁ」と思いました。1時間くらいでパークウー洞窟が見えてきました。ここは、絶壁にある洞窟で約4,000体もの仏像が複雑な洞内に所狭しと安置されています。

 二つの洞窟のうちひとつは横穴になっていて、奥はライトなしには進めないほどの暗闇です。その中に祭壇がありました。ガイドさんの話によると、以前、この洞窟の入り口を閉め切って修行を極めた僧がいて、王様が心配して食事を運んでも、次第に3日に一度、7日に一度と減らし、即身成仏となったそうです。以来、この洞窟は現在に至るまで、ラオスの人々にとって神聖な場所として親しまれているとのことでした。

 過去にニューヨーク・タイムズで「最も行きたい国」第1位に選ばれたこともあり、東南アジア最後の秘境と呼ばれるラオス。アンコールのように壮大な遺跡もなく、エメラルドグリーンの海が広がっているわけでもなく、また、タイのトムヤンクンのような名の知れた料理があるわけでもありません。急激な近代化を進めるタイとベトナムに挟まれながらも、悠久のメコン川に寄り添って、ゆっくりと時間が流れる国でした。 かつて、ラーンサーン王国として統一されたこの国は、フランスによる統治やインドシナの戦火に巻き込まれるという歴史を経て、「ラオス人民民主共和国」となりました。今もなお、海外からの経済援助に頼っていますが、この国で暮らす人々の心は素朴で優しさいっぱいで、どこへ行っても溢れんばかりの笑顔で、私達を迎えてくれました。 今回のラオスツアーを通じて、「本当の良い生活、そして幸せは、物質を多く享受してステータスを追求することではなく、普遍的で純粋な精神と文化で心を満たすことで得られる」のだと思いました。 女性スタッフはここで帰国なのでお別れし、私たちはカンボジアへ向かいました。

「達彦記」(つづく)

 



IN LAOS/CAMBODIA 2

2019年5月11日

IN LAOS/CAMBODIA 2

  

 ピッチに入場するときに、盛り上がるかなと思い、サッカーアンセム(ワールドカップ等の国際試合での入場曲)を流したのですが、あまり国際試合を見たことがないようで、反応が薄く、またそれをうまく伝えることもできずに、結局グダグダな入場になってしまいました。用意してもらっていたボールの、いくつかはすぐに空気がぬけてしまうなどのアクシデントもありましたが、なんとかキックオフ!

 35度を超える暑さでの中、真剣にボールを追いかける子供達、それをボコボコのピッチに戸惑いながら、様子見しながら受けて立つ日本チーム。生徒チームは途中からゴールキーパーとして校長先生を投入してきました。試合終盤、右サイドにいた私にパスが回ってきて絶好のチャンスに。しかし、自分でもいい感じに打てたゴール隅を狙ったシュートが、校長先生のナイスセーブに阻まれてしまいました。なかなか盛り上がった試合は、最後にはこちらのペースになり、我々の勝利。

 今回も子供達のキラキラした目は「サッカーは共通語」を体現していて、腰痛をおして頑張った分、いっそう感無量でした。

 サッカーをしていないピッチ外の子供達には、女性スタッフがシャボン玉を配って一緒に遊んでいました。

 液体なので、途中税関での没収を考慮し、バック内で漏れないようにとジップロックに詰めなおすなどして、彼女達が日本から苦労して大量に持っていったものです。現地では間違って飲み込まないように配慮したり、数がちょっと足りなくなったりしたそうで、なかなか大変だったようです。子供達は「パオー、パオー」と言いながら(プゥーと吹くことをラオスではパオーという)、楽しそうに遊んでいて、「ほら大きいシャボン玉ができたよー見て見てー」と女性スタッフを囲んでいました。

  この様な支援を続けていると、「本当に必要とするものはボールやゴールではないでしょ」という声が耳に入ることがあります。生活物資の支援も必要で大切なことはもちろんなのですが、生活や勉学だけではない、楽しみを味わうという喜びもまた、子供達にとって必要な体験に違いないはずです。今回の子供達の満面の笑みが、この思いが間違っていなかったということを証明してくれたようで嬉しくなりました。

 日本から持ってきた大縄で縄飛びをして遊んだりもして盛り上がり、最後には私達の寄書きユニホームと日本のお菓子をプレゼントして、学校を後にしました。

 3日目はビエンチャン最古の寺院であるワットシーサケットと、ラオスを代表する金色にそびえる仏塔タート・ルアンを参拝。ラオスのシンボル、パトゥサイ(凱旋門)へも足を運びました。タート・ルアンを参拝中、一人の男性が寄ってきました。籠に入っているスズメに願い事をしながら放すとその思いが叶い、幸せになれると言うのです。これも支援のひとつかなと思い、9人いたので9羽放すことにしました。値段は、一羽日本円にして10円くらいだったと思います。私が代表して支払いをして振り返ると、まだ願い事もしていないのに、もうすでに放たれてしまっていました。後から聞いたところによると、餌をやると戻ってくるように訓練されたスズメなのだとか。

 その日の内にルアンパバーンへ移動です。国内線で一時間、そこからまた車で一時間に行ったところに次の目的地、クアンシーの滝がありました。美しいターコイズブルーの滝つぼが幾層にも連なり、色彩豊かな神秘的景観の絶景スポットです。遊泳可能になっている滝つぼもあり、泳いでいる人たちが見えました。自然の木を利用してつくられた飛込み台が設置されていたので、私が飛び込んだら、きっと教え子達も続いてきて、よい思い出になるのではと思い、先頭をきって飛び込みました。しかし、誰もついてこず、なんと見て見ぬふりをしていました。理由は着替えがないからだったそうで「まさか本当に行くとは思いませんでしたよー」、「サッカー部の時の指導が足りなかった!」とみんなで大笑い。

 次はルアンパバーンのもう一つの絶景スポット、プーシーの丘へ夕日を見に行きました。メコン川が流れる町並みが一望でき、その先の山間に夕日が沈んでいきます。300段を超える階段を登った先は大混雑でしたが、なんとか場所を確保するとその先に綺麗な夕日がありました。しかし日没の時間が迫り、いよいよと思っていたら、残念なことに山上にあった雲の中へ。諦めて丘を降りると途中の小台に戻ったところで、再び夕日が顔を出していました。もう少し上で我慢していればと悔やみつつも、山間に沈み行く美しい落日を見ることができたと安堵するという複雑な気分でした。「達彦記」(つづく)


 

IN LAOS/CAMBODIA 1

2019年4月26日

IN LAOS/CAMBODIA 1

 腰の大怪我をしてから、ここ数年お休みしていた仏教支援でしたが、ほんの少しだけ調子が良くなってきたので、今回はラオスとカンボジアに行って参りました。

   前回のネパール同様、現地の小学校を訪問し、サッカーゴール・備品などの寄付をして、一緒に遊んで楽しんでもらうことが目的の支援です。今回は、いつもの僧侶メンバーに加え、看護師やトレーナー等の女性スタッフ3名、そして私がコーチをしている地元中学校のサッカー部OB3名が参加し、総勢9名での訪問となりました。

   日本から7時間30分のフライトでラオスの首都ビエンチャンに到着。夕方になっていたせいもあってか、東南アジアの国に降り立った時独特の、もわっとした湿気帯びた暑さはあまり感じられませんでした。

   チェックインした後は早速、お楽しみの夕食。最初の食事だからか、おそらくラオスではかなり高級であろうレストランに案内されました。籐の器に入った赤米や、笹の葉につつまれたお肉、パクチーたっぷりの和え物などが美しく並べられています。味のイメージとしてはベトナム料理とタイ料理の中間という感じで、私はどれも美味しくいただきましたが、パクチーや赤米が口に合わないメンバーもいたようです。

   食事の途中からラオスの民族舞踊や民族楽器による演奏が始まり、我々向けのサービスなのか聞き慣れた日本の曲を多く演奏してくれていました。演奏後にはお店に無理を言って、舞台で民族楽器を演奏させてもらい、ちょっとした旅の思い出に。夕食の後はナイトマーケットへ。初めての国で危ないところもわからず「みんな離れないように」なんて言っていたのですが、とても治安がよく楽しく歩き回ることができました。私は、支援の一環として、旅行中の着るものを現地で揃えようと思っていたので、ここでほとんど調達できて大満足でした。

   ビエンチャンには世界遺産の観光地も、大きなデパートもありません。高層ビルがひしめく訳でもなく、ラオスの首都でありながら、のんびりムードが漂う街でした。

   次の日(2日目)は、いよいよ小学校訪問です。

   ビエンチャン郊外のチャルンサイ村の小学校Chaluenxay Schoolです。首都を出ると舗装されていないオレンジ色の土の道路が続きます。車で一時間、ようやく目的の小学校に着きました。子供達が遠巻きにこちらを見ています。

   寄贈式の始めは村長さんと校長先生のご挨拶。「この学校は屋根のみで壁がありません。子供達は、いつも雨や風、さらには虫や獣を凌ぎながら大変な思いで勉強しています」と言うお話しが印象的でした。

 続いては我々の番。子供達の発育と幸福を願いご祈祷を厳修。木剣をならす私たちに子供達がどんどん近づいてきて、みんな合掌しながら見つめてきます。さすが仏教国だと感じ入りました。ご祈祷の後は、いつものように「サバイディー!私達はみなさんとお友達になりたくて来ました。サッカーは、ボールひとつで、言葉が通じなくても、年が違っても、性別が違っても、人を結びつけることができます」等と緊張しながらお話ししました。

   ここで、驚いたことにラオス政府から今回支援ツアーメンバー全員に感謝状が来ているということで、一人一人村長から手渡され恐縮至極。大変良い記念になりました。

   いよいよ生徒たちとのサッカーの試合です。「達彦記」(つづく)

IN Nepal 4

2017年11月20日

IN Nepal 4

 そのあとはパタンの町を散策です。パタン・ダルバール広場にある旧王宮を見学しました。16世紀から18世紀にかけて建てられたもので、周囲には寺院が立ち並び、世界遺産にも認定されています。地震で傾いてしまった塔は、つっかい棒で支えられていました。修復しようという気配はありません。日本の感覚では「立入禁止」のような所ですが、広場にはいろいろな店が出ており、観光客や地元の人たちで賑わっていました。また釈迦族が当番制で護っているという周辺のお寺にもお参りできました。
 カトマンズで滞在したホテルに、サッカーのネパール代表の技術委員長が滞在していると聞き、夕飯をご一緒させていただきました。現在、ネパール代表の監督、ならびに技術委員長は日本人なのです。話しているうちにT氏が私の大学の大先輩であることが判明。私と同地区でサッカーを指導していた時期もあったそうで共通の知人がいたり、ミャンマーでお会いした女子サッカー代表監督のK氏もご友人だったりで、いろいろと話が盛り上がりました。
ネパールのサッカー事情や言葉の違う国で指導する際の苦労話などの興味深い話も聞けました。
 嬉しい出会いだったので「先日サッカーをした中でとてもうまい子がいたので、スカウトしてあげて下さい」と頼んでおきました。その夜、先日お会いした釈迦族の方とヨーロッパサッカーの深夜放送を一緒に見る約束があったので、T氏もお誘いし、釈迦族の方のお宅で試合を観戦。楽しい思い出となりました。
 翌日はお釈迦様が誕生したといわれるルンビニーへは、飛行機で移動です。ネパールでは最近たて続けに小型機が2機墜落しており、自分が搭乗する飛行機の小ささ(プロペラ機の中型)を見た時、かなり動揺しました。日本の家族からも「気をつけて」とメールが来ましたが、気をつけようが無いので余計怖いという・・・。びくびくしながら乗りましたが、窓から見えるヒマラヤ山脈の美しさに、すっかり気分が良いフライトになりました。
 ルンビニーでは、まずカピラ城跡へ。かの有名な生老病死の四門出遊の場所です。
 城跡すぐのところに西門がありました。さらに奥に進んでいくと、僧院跡の遺跡、沐浴されていたという池があり、最後に東門跡がありました。お釈迦様がいた頃はどうだったのだろう、この門から出て,老人や病人を見たのだろうかなど、同じ場所に立ち2600年前に思いを馳せました。
 そしてマヤ堂にお参りです。
マヤ夫人の脇の下から生まれたお釈迦様が、すぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた伝説の場所です。門からは土足厳禁。裸足にならなくてはいけません。
中に入るとかつて城壁だったであろうレンガの山があり、その中に、お釈迦様が初めて地に触れたとされる場所がありました。その部分だけガラスで保護されています。またまた、タイムスリップ。ゆっくりと深呼吸をして、謹んで手を合わせました。
 それからは車で7時間の大移動。お釈迦様涅槃の地、インドのクシナガラに向かいました。国境を越えるとがらりと雰囲気が変わりました。道路の舗装がなくなり、ネパールに荷物を運ぶトラックの長い列、我先に行こうとする車のクラクション、埃だらけの商店街、よどんだ空気、行き交う人の多いこと!
腰痛を押しての渡航だった私にとっては、未舗装の道路行はかなり辛いものになりました。
 夕方になってクシナガラ着き、涅槃堂に参拝。
中に入ると、全長6mの涅槃仏が横たわっていました。5世紀初頭のものといわれています。この涅槃像は足下から拝すると死んでいる顔に、中心から拝するとやさしく平和な顔に、顔の前から拝すると笑顔に見えると説明を受け、そう思って拝してみると確かにそのように見えました。
 お堂に座して、謹んで一読。涅槃像のまわりは座って瞑想する集団や読経をする僧侶・仏教徒でいっぱいで、ミャンマー・韓国・ネパール・台湾・ベトナムなど世界各国からの参詣者が絶えないようでした。
 お供え物は頭部付近に、灯明やお香は中心部にお供えされていて、お像には、緋や木欄色の布が幾重にも布がかけられています。閉堂時間になり、涅槃堂の僧侶がお像に掛けられていた布をかたづけていたので、帰り際に覗くと、最後の一枚は金色でした。
 それとインドですから食事はもちろんインドカレー。本場のカレーはとても美味しかったです。
 最終日は地震被災地の視察です。まずカトマンズの王宮跡、ダルバール・スクエアーへ。世界遺産にも指定されていますが、かなり損壊が見られ、以前の写真と見比べると、その姿の違いに驚きます。いくつかあったはずの塔の頭がなくなっていました。次は、カトマンズ郊外のブンガマティという町へ。このあたりは農家が多く、地震がきた昼は、ほとんどの人が畑に出ていて屋内にはいなかったそうですが、それでも数人の死者が出ています。建物はほぼ全壊で、以前町の中心に寺院が立っていたと聞いたときは信じられませんでした。その痛々しく崩壊したままの場所で、何事も無かったように元気よく遊んでいる子供たちの姿には複雑な気持ちになるものです。
 近くへ行ってみると、崩れたレンガの中からまだ使えそうなレンガが拾い集められていました(カトマンズ周辺いたるところでも同様)。それをまた昔と同様にセメントや粘土で積み上げていくのだそうです。また地震がきたら同じ事になってしまうのではないでしょうか。
 地震によって町や家が壊れても、電気やガスがなくても、みんな前向きに生きているネパール。危機的な状況にも関わらず、それを受け入れて生活していくネパール人のポジティブさを肌で感じ、支援に行ったつもりが反対に元気をもらって帰って来た旅となりました。「達彦記」(終)


IN Nepal 3

2017年10月18日

IN Nepal 3


(IN Nepal 2より続く)
 翌日は、カトマンズから車で1時間半くらいのトリブバン・アダーシャ小中学校に行き、サッカーゴールとボール・ユニホームを寄贈しました。
 全校生徒が校門から列をなして待ってくれていました。門に入る前に、歓迎の印のカタ(襟巻きみたいなもの)を首にかけてもらい、列の中を進んでいきます。子供たちが口々に「ナマステー、ナマステー」と迎えてくれるので、こちらも合掌しながら「ナマステー、ナマステー」とご挨拶しました。
 校庭での寄贈式では、まず、子供たちの発育と幸福を祈り、ご祈祷を厳修。その後「私たちはサッカーを契機にして、みなさんと出会えることができて幸せです。サッカーは、ボールひとつで、言葉が通じなくても、年が違っても、性別が違っても、人を結びつけることができます」とお話しし、ボールとユニホームを渡しました。
 早速、お互い着替えてサッカーの試合開始です。支給されたユニホームに身を包んだネパールチームが登場しました。我々日本チーム(保育士さんたちも出場)とネパールチームとの国別対決で「絶対に負けられない戦い」です。お互い握手を交わし、ギャラリーにも挨拶。このやりとりに彼らは照れながらも嬉しそうです。
 いよいよキックオフ。開始早々、ネパールチームにいきなり攻め込まれ、日本チームまさかの失点。サッカー部OBが3人いたので大丈夫だと油断していました。目を輝かせてボールを追いかける子どもたち。良いプレーをジェスチャーで褒めると得意顔です。心からサッカーを楽しんでいることが伝わってきてこちらも嬉しくなります。慌てて反撃を試みましたが、奮闘虚しく結果1-4で負けてしまいました。
なかなか上手な選手もいて、このようなでこぼこのピッチではなく、もっと良い環境であれば、かなり上達するだろうと思いました。
 「好きなサッカーで、子供たちを笑顔にしたい」という気持ちから始まったこのサッカー支援ですが、ミャンマーに続いてネパールでも想いを叶えることができて感激したひとときでした。
 次はパタンにあるバッサラ保育園を訪問しました。ここでもまた入り口でカタを掛けてもらい、子供たちの列の間を進み、「ナマステー」とご挨拶。ステージで踊りや歌を披露してくれました。保育園くらいの子供たちによるかわいい踊り、小学生くらいの子供たちは、お化粧をして、衣装をつけてのネパールの民族舞踊、中学生くらいの子供たちは日本の「四季の歌」を歌ってくれました。
 ここは尼僧さんが運営している施設で、地震があってからは、保育園のほか、小中高生(12年生)を引き受けているそうです。それほど大きくない施設に、現在500人の生徒がいるそうです。園長先生は「地震によって親をなくした子がいますが、卒園生が立派になって、国や経済の中心で働いているのが誇りです」とおっしゃっていました。
 お土産に持って来た日本のお菓子を保育士さんたちが子供たちに配って、大変喜ばれました。
 帰国後ネパールからメールが届きました。
「今回の釈迦族支援で、釈迦族のなかで、困窮して学校に通えない子どものうち、一名が通学することになりました。シュリーニシュ君は11歳。5年生でパタンに住む釈迦族の子どもで、今回の地震で住居に大きな被害を受けました。両親は経済困窮者で、彼を通学させることができませんでしたが、今回訪問して下さったバッサラ学校の校長にお願いして、4月18日から同校の新学期に入学することができました。大変優秀で、テストで75点とりました。深く感謝申し上げます。」
お役に立てて本当に良かったです。「達彦記」(つづく)


In Nepal 2

2017年8月21日

IN Nepal 2

 謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修したあとは、居間に移動し、お食事を待つ間、釈迦族の昔話からなるお話が聞けました。
 「2600年も昔の話。コーサラ国の王が釈迦族の妃を釈迦国から迎えたいと願ったが、釈迦族はプライドが高く、釈迦族同士の婚姻しか認めない。血を混ぜない、あんな国に嫁入りさせるなんて等々という理由もあって、深く悩んだ末、大臣が「召使いの中に、とびきりの美人がいるので、身なりを整えさせ、私の養女として迎え、王族の娘として嫁入りさせればいい」と考え、その女性をコーサラ国へ出した。
 王とその女性の間には、息子(王子)が生まれた。王子が8才の時、故郷の釈迦国に訪れた際、自分が召使いの子であると知ってしまった。カースト制のある時代ではとんでもないことに王子は憤慨し釈迦族に恨みを抱きコーサラ国に戻った。やがてコーサラ国の王が亡くなり、自身が王位につくと釈迦族を攻めて壊滅させた。その時釈迦族の人たちが流した血は湖になったと伝えられている」あくまで釈迦族の人たちからの話ではありますが、その時、命からがら逃げのびて、今のカトマンズの山麓にたどりついた末裔の人たちがその日そこに集まった人々ということでした。※1

 釈迦族の末裔の人々は手先が器用で、ネパールの伝統技術集団です。パタンの町の細く狭い路地を歩くと、レンガ作りの家からは「カチカチカチ」と彫金の音が響いていました。工房では、数百年間続くシンプルな道具を以て、繊細な彫金によって仕上げていく多くの行程を見ることができ、数百年の歴史を守り今に伝えています。
 また、釈迦族のきまりとして、必ず男性は皆、出家するそうです。現在は、「釈迦族だから」「仏教徒だから」という差別は無く、釈迦族は現在50万人いるとのこと。ただ釈迦族同士の婚姻だけではなくなっているので、純粋な釈迦族は少なくなっているそうです。日本で聞いてきた「差別や貧困で困っている」という話と違うな…と思いながらも、興味深くお話を伺いました。

 ネパール家庭料理、ダルバード(豆カレー)や野菜の炒め和え物が並びました。気を遣ってくれたのか、あまり辛くはありませんでしたし、スパイスが効いていて非常に美味しかったです。ネパールの家庭で飲まれている伝統的なお酒、エイラも勧められました。これは米焼酎のようなもので、アルコール度数は70度!火を付けたら炎が出て、電気不足で薄暗い部屋に美しく灯っていました。彫金加工されたドリップポットを上に掲げ、下の盃(これも美しい彫金加工)に注いだものを飲むのです。お酒の飲めない私は舐めるだけでしたが、舌が痛くなるくらいカーッとしました。他のメンバーは「これは美味しい!でも、きついねー」と言っていました。
「達彦記」(つづく)

※1コーサラ国王は釈迦国に攻め込む途中、お釈迦様に出会います。そこで説法を聞いた王は兵を引き下げました。しかし、また怒りがこみ上げ釈迦国を攻めようとします。するとまたお釈迦様に出会い、兵を下げました。同じことが三度あったのですが、四度目にはお釈迦様の姿は見えませんでした。弟子の目連が神通力でカピラ城(釈迦国)を救おうとしたのですが、「釈迦族の積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」とお釈迦様はおとどめになりました。お釈迦様は三度目まではかつての故郷、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力されたのですが、四度目には因果応報の理にまかせられたのです。ここから「仏の顔も三度まで」と言われるようになりました。

IN Nepal 1

2017年7月29日

IN Nepal

仏教支援で、ネパールに行って来ました。
ネパールには今も、お釈迦さまの子孫である釈迦族(サーキャ族)が生活しています。
釈迦族はその昔、強国であった隣のコーサラ国によって滅ぼされたとされていますが、その生き残りの子孫です。インド同様にヒンズー教が強いネパールでは、仏教徒である釈迦族は虐げられ、大変な生活をしているということから、その支援でネパールへいくことになったわけです。
また、先の地震で被災したネパールの子供たちへ、前回のミャンマー同様、現地の保育園・小学校を訪問し、食料品・備品などの支援をして、一緒に遊んで楽しんでもらうことも目的でした。今回は、いつもの僧侶メンバーに加え、N保育園の保育士さん2名、そして私がコーチしている地元中学校のサッカー部OB3名が参加し、総勢9名での訪問になりました。
トランジットを含め17時間をかけ、首都カトマンズに到着。朝晩は冷え込みますが、日中は少し暑いくらいで日本と変わりません。山岳地帯だからか、東南アジア特有の「もわっ」とした湿気も感じられませんでした。
まずは車に乗って、ガイドのスメットさんのお宅へ向かいました。ガイドさんご自身が釈迦族で、彼のお宅に釈迦族の皆さんが集まってくれているとのこと。
旅行前に、ネパールをよく知る友人から、「道がデコボコ」「電気事情が悪い」など、ネガティブな情報を聞いていたのですが、いざ町中に出ると、道は思っていたよりも平らでした。それでも日本に比べればそれはそれはガタガタで、空は砂・土埃なのか、もやがかかっています。何より目についたのは、何本も複雑に張り巡らされている電線でした。どれがどこにつながっているか全くわかりません。ぐしゃぐしゃにからみあっています。道にはお店がたくさん建ち並んでいて、歩行者だけでなく、座り込んで道を眺めている人や、集団であれこれ喋っている人たちでいっぱい。信号の無い車道もかなりのバイクや車が行き交い、クラクションが鳴り響いています。
しばらく行くと、長い長いバイクの行列が目に入ってきました。ガソリンを待つ列なのだとか。東日本大震災があった時、日本でも流通が止まり、ガソリンスタンドに行列ができたことを思い出して、納得しかけると、なんと、この行列は地震の影響ではないということ。
インドからの輸入に多くを頼っているネパールの物資不足は深刻化しており、特にガスとガソリンはすべてインドからの輸入のため、両国の関係が悪い現在、入手が困難になっているとのことのでした。この列だと1日待っても入手できないのではないでしょうか。
またその資源不足により、ネパールでは一日のうち14時間は停電している状態でした。ホテルでは自家発電なので、私たちには影響はありませんでしたが。
そうこうしているうちにガイドのスメッドさん宅に到着です。予想外の豪邸。あれ?聞いてきた「大変な生活」は???と考えているうちに、仏間に案内されました。そこには30人ほど釈迦族の方々が集まっていて「ナマステー」と出迎えてくださいました。お釈迦様の子孫と会えたことに感激しました。そして、まずは謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修いたしました。「達彦記」(つづく)


再会-In Guilin

2017年5月20日

桂林 帥民風先生  


 三月下旬、中国桂林に行く機会がありました。住職の書道・篆刻の師であり、以前本納寺の写経会で指導してくださっていた帥民風先生にお会いできました。十三年ぶりの再会でした。
 使う機会があまりないということでしたが、日本語もまだまだお上手で、懐かしい話に花が咲き、あっという間に時間が過ぎていきました。
 帥先生は現在、広西大学美術学院の学院長をお務めです。
 作品を下さいましたので、本納寺に展示しました。

IN USA 4

2015年7月1日

IN USA 4

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飛行機の中から砂漠に囲まれたラスベガスの街を見たときは感激しました。今まで見たことのあるアメリカの都市とは全く違う佇まいで、こんな所によく街を作ったものだと思います。
ラスベガスに到着してすぐに観音寺をお参りしました。つつしんで御宝前に読誦、唱題をし、遠いこの地において一読できたことを心から嬉しく思いました。御住職(北米開教区長)と奥様が出迎えて下さり、色々なお話を伺うことができました。
開教師は日蓮宗に派遣されるという立場にあるので、ユタ・シアトル・ロサンゼルス・ラスベガスと各地を転任なさったとのこと。ユタ駐在時には、管轄が広く、アイダホ州やコロラド州などの信徒宅を泊まりがけで訪巡したとか、シアトルではお寺の資金作りのために、ばら寿司、お饅頭などを作ってバザーを開催したり、青森で習得した和讃(三宝諸尊に和語を用いてほめたたえる讃歌)を世界中に弘めるため、シアトルやロサンゼルス、殊にはイタリアまで手ほどきに行ったなどなど。御住職は「ラスベガスはギャンブルだけの街ではありません。毎月のようにコンベンションが開催されています。そのほかショッピングやショー、国立公園に行くためなどで世界中からたくさんの人が訪れます。その各国から来られた旅行者たちがネバダ観音寺に立ち寄り、お題目と結縁してもらい、幸せな人生を送れるよう願っています。」と仰っていました。
夜になると、目が痛くなるほどのイルミネーションが光る街で、ショーを見て、ちょっとだけ、カジノでスロットマシンやルーレットを体験しました。翌日は、6時間車に揺られグランドキャニオンへ。素晴らしい景色に感動。再びアメリカの大自然に圧倒されました。
布教活動だけで、寺院・教会を維持できている開教師、国際布教師の方々は、ほとんどいません。日本語教師や、リムジンの運転手をしながら、一所懸命に活動しています。「もっと北米に仏教が、法華経が弘まって、握手ではなく、合掌が当たり前になるよう頑張りたい」という言葉が印象的でした。法華経・お題目はその教えが普遍的な教えである限り、文化や言語が違っても、日常に密着した役割があるはずです。そして今回お手伝いさせていただいた「唱題行」が日本とアメリカを結ぶ、架け橋になってくれることを願ってやみません。 (終)「達彦記」

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IN USA 3

2015年6月11日

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昨年、2014年に日蓮宗北米開教100年を迎え、盛大な式典が開催されましたが、それを機に大きな変革がありました。100年を経過し、もう開教ではないということなのでしょうか、今期をもって宗門の開教区が廃止され開教師の肩書きがすべて国際布教師になることになったのです。
今までの開教区長が日本人だったのに対し、今後の国際布教師のリーダーはアメリカ人の教師になるそうです。
数年前、私はハワイの寺院で行われた、ハワイ開教100年の法要に参列しました。その時の信徒のほとんどは移民の日系人2世、3世でした。言葉は英語がほとんどでしたが、祖父祖母・父母からによっての日本仏教や日本文化に対する日本人の常識が、まだあったように思います。いわば移民の人々の信仰でした。当時ハワイの開教師が、「現在3世、4世の時代に入り、これからますます厳しい状況であります。本当の意味でこれからが開教の時です」と仰っていたのを思い出します。
今まさに北米において、外国人の教師による外国人への布教の時代が始まろうしているのだと実感しました。使用言語が英語だけになるという現実をプラスにとらえたいものです。
次の地に移動するための空き日にサンフランシスコやヨセミテ国定公園などを観光しました。ゴールデンゲートブリッジを間近に眺め、ヨセミテではアメリカの大自然に包まれて、シーフードやハンバーガーを堪能しました。
次の目的地は、ネバダ州ラスベガスにある観音寺です。「つづく」

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IN USA 2

2015年5月19日

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研修の会場であるNBICは、ご本堂はもちろんのこと、その他に講義室・食堂・寺務所などを完備した素晴らしい施設でした。
「唱題行のあり方と実践」をテーマに、いよいよ2日間にわたる研修開始です。
まず、北米開教区長の御導師による法味言上(三宝に感謝し御経を唱え、お供えすること)がありましたが、いつもと違うところは声明とお経が英語だったこと。特に声明に関しては、英語の節に所作をあわせるというアメリカならではの法要でした。現在アメリカの経本には英語版と、日本語発音をローマ字表記したものと二通りあるそうです。
今回の研修は、全米から開教師・国際布教師(現地生まれ・現地育ちの教師)が集結した大きなもので、日本人、アメリカ人、日本語のわかる人、わからない人、様々でした。
講義では、講師の説明が通訳を介して伝えられるため時間がかかり、講師も「どこまで話したっけ?」と少々やりにくそうでしたが、唱題行の精神・呼吸法などの内容の濃い講義にみんな真剣に聞き入りました。
昼食時にNBIC前の道路を挟んだ向こう側のレストランに行ったのですが、衣帯をつけた僧侶がアメリカの町を団体で歩くという光景は、珍しいものだったことでしょう。
唱題行の実践では、開教師、国際布教師の方々が導師、太鼓を順につとめました。唱題行の経本も英語版とローマ字版が用意されており、導師を務める教師によって選択され、進められていきました。講師から様々なアドバイスもあり、今後の各ご自坊での唱題行布教に為になる有意義な時間となったようです。
引き続き研修のあとは現地の信徒をお迎えしての唱題行が厳修されました。10人がお参りにみえ、精神統一して、お題目を唱える、よい御修行になったことと思います。正座は難しいらしく全て椅子席でした(最近は日本でも椅子席が多くなってきていますが)。
また研修の合間に法要が行われました。御導師は、日本語がほとんどわからないアメリカの国際布教師で、参列している信者さん達もすべてアメリカの方でした。
キリスト教では信仰の証として、教会でクリスチャンネームが授与されます。その慣習を受け、アメリカでは仏教徒の証としてのダルマネームを授けているそうです。その日は授与式が行われていました。ネームは法華経から選び出された漢字2文字でした。
「つづく」

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In USA

2015年5月1日

In USA

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先日、アメリカ合衆国ヘイワードにあるNBIC(Nichiren Buddist International Center)で、北米開教区教師研修会が開催され、研修会の講師お手伝いとして、私も同行して参りました。
10時間のフライトで、サンフランシスコに到着。ヘイワードはそこから車で1時間の町です。ホテルに荷物を置いて早々案内されたのは、ステーキ屋でした。450グラム以上のT-bornステーキに、大量のポテト、サラダなどが出てきて、あまりのボリュームに圧倒されました。テーブルの上のバケツには殻付きのピーナッツが入っており、殻をむいて、そのまま床に投げ捨てながら食べるようで、当然床はピーナッツの殻だらけ。早々に絵に描いたようなアメリカを体験しました。
食事をしながらの話題は、アメリカにおける仏教の状況についてです。現地教師はこう仰っていました。「アメリカは平和を唱えていますが、ご存じのとおり軍国主義で、戦争反対とはいえない国です。そんな中、湾岸戦争以降キリスト教から離れていく人々が増えました。例を挙げると、カトリック系の学校の減少です」。
そもそも政教は分離しているべきものだし、単純にアメリカにおける宗教離れも原因と思われますが、争いごとが多い時代、キリスト教が救いを求められていない結果ではないかと想像されます。現に研修参加者の中には、湾岸戦争からの帰還後、改宗し出家した教師がいらっしゃいました。
今こそ、争いごとを嫌い、寛容で穏やかな仏教の「頑張りどころ」なのではないでしょうか?「つづく」

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